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2008年9月

よその地で四十歩

 引っ越した先の小学校には一年間しか通わなかった。が、記憶に残ることの一番多い年でもあった。転校したてはいじめに遭った。後にも先にもその時だけだ。学芸会で「羽衣の天女」を上演したこと、担任の先生が文集作りに熱心で既に始まっていた書くことへの情熱が更に高まったこと。

 しかし、作文は嫌いだった。日常の出来事には興味がなかった。手作り紙芝居に文をつけることになると俄然張り切った。なーに、作文だってウソ八百でかまわないのさと作りごとを書いて平然としているようなら、今頃は大作家?

 もう一つ忘れ難いのは級友に絵のとてもうまい人がいたことだ。名前も思い出せず、顔も覚束ないが、描いた絵だけは覚えている。きっと少女漫画かイラストの世界で活躍しているに違いない。生憎、そっち方面には疎く高名な漫画家になっていても気づかないだろう。一度、よく似た絵を新聞の展覧会紹介記事で見てひょっとしたらとわざわざ見に行ったら、年齢も上で且つ男だった!

 案外、専業主婦になっていて自分の子供にだけ描いている・・・・今なら孫にか。としたら、勿体ないなぁ。古今亭志ん朝の母親も絵のうまい人だったらしい。今ならその才能で身を立てていたかもしれない。惜しいなぁ。

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三重苦歩

 どういうわけか小4の時はよく一人で歌わされた。音楽の時間以外にもなんかかんか歌っていたような気がするが、それよりなにより「羽衣の天女」を脚色、演出、主演したことが最大の出来事だった。歌うことも好きだが芝居をするのは100万倍も好き。小中とクラブは化学部で通したが、本当に入りたかったのは演劇部だった。入りたくてうずうずしていた。ああ、それなのにそれなのにナゼ入らなかったのか?

 あんなガキ臭い芝居、ちゃんちゃらおかしくて誰が!

 小5か6の時、クラスで衣装も装置もなしに化学部の男子三人とで「ベニスの商人」の法廷の場を上演した。脚色、演出、主演!なんと気持ちの良かったことか。ああ、それなのにそれなのにソレが人前で演じる最後の晴れ舞台になろうとは!

 幾ら考えてもナゼ化学部が芝居をやったのか、全く思い出せない。そして二つの芝居の主演男優(複数形)とはheart04の仲だった。たって、小学生ですからね。なーもありません。

 やはり、小4の時だったと思うが、一度だけ従姉に発声を習った。あと二度ぐらい、習っておきたかったなと思う。30代40代は一人部屋で歌うこともなかった。50代に入って又ぼちぼち歌い出した。生まれつきいろんな声を出せる。アルビンのような声でもテナーでも!ヨーデルでも端唄でも。ああ、それなのにそれなのに唯の一度も歌手になりたいと思ったことはない。役者にはなりたかった。単純に芝居の方が好きだったからだが、職業的歌手になるには一つジャンルを選ばなければならない。オペラかロック、フォークソングか歌謡曲、長唄かファド、etc. もし、ハスキーボイスに生まれついていたら、ジャズ歌手を目指したかもしれない。

 都会のネズミ小屋ではなかなか音量目一杯で歌うことは叶わぬが、それでも腹から声を出すのは爽快だ。が、歌舞伎や狂言の台詞を喋る時の気持ちのいいことと言ったら!松の木でもいいから、死ぬまでに一度舞台に立ちたいぞ。幼稚園の学芸会でも可。

 それくらい演じることが好きだったが、8歳か9歳の頃、もっと好きなことに出会ってしまう。「小公女」の主人公セーラはお話を作るのも得意だった。わたしも書いてみようかしら?と思ったのがわが人生最悪の時だった。とはその時は勿論その後三十年以上も気づかなかった。

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ド三十八歩

 初めて歌ったのが幾つの時か、覚えている人はいるのだろうか?大人になって無理強いされて、はng

 しきりに歌ったのは雪村いづみの「遥かなる山の呼び声」この曲と「青いカナリア」はいづみでなけりゃ、なのだ、今もなお。ラジオの歌番組の目当てはひばり、合わせて一緒に歌った筈が、特にどの歌との記憶がない。おそらく、あり過ぎて特定できないのだ。

 織井茂子の「黒百合の歌」も愛唱歌であった。しかし、ある時自分では子供離れしたと思える声で歌っていると「子供がそんな歌、歌うもんじゃありませんよ!」と母に叱られた。どこがいけないのかさっぱり分らなかった。今もそう悪いと思えない。

 学校で教わる歌はどれも面白くなかった。例外的に好きだったのは「ちいさい秋」同様に三橋美智也の歌でこれだけはいいと思ったのが「星屑の町」どちらもおおたか静流が「リピートパフォーマンス」で取り上げたのは偶然ではないだろう。長じて日本の歌で一つ選ぶとすれば「雪の降る街を」だと思うようになったが、「ちいさい秋」と作曲者が同じだった。子供の頃、好きだった曲、歌手は今でも好き、嫌いだったのは今でも嫌い。

 両親、姉の誰一人として鼻歌を歌っているのさえ聞いたことがない。口笛も吹いた様子がない。全く歌わない人類は永遠のナゾである。

 

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皆さ~ん三七歩

 373歩まで待てない。精々100歩でお仕舞い。そこで37歩を記念して1桁年齢時好きだったこと、もの、いやだったこと、もの総まくり!

 《いや編》   

1)  白木屋へ行く時、ガードをくぐらねばならなかったこと。電車の轟音が恐ろしかった!遅くも小3の頃には平気になった。

2)  三本川で寝ていた頃、父に頬擦りされること。伸びかけの髭で痛かった。

3) 体育の時間、運動会。運動神経0。

 《好き編》

1)  やしまのボンボン。浮き輪形の砂糖菓子の中に色、香りのついた砂糖水が入っている。今でもカルメ焼き、メレンゲなどの砂糖菓子、大好き。

2)  二親に左右から腕を持って貰って空中散歩。

3)  Singing, acting and writing

 

 

 

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級長と三十六歩

 その後、二度♀であることで屈辱を味わった。小学校5年、いや6年の時、投票により級長と認むとされたのに担任教師が「あなたは女だから級長は男子の誰それに」と次点の男子生徒に回したのだ。別に級長なんぞやりたくもないし、既に何度もやっているのでそのままにしたが、言われた時の不愉快さは一生忘れない。その教師が女だったから余計許せない。どうやらその男子生徒は私立の中学を受験するらしく内申書に級長!と書き込みたかったらしい。

 三度目は受けろと言われた高校が旧制中学の奇数校だった為、女子は男子の半数しか取らないと知った時だ。女子は入れたくない本音が丸見えであった。公立の高校でこんな男女差別が罷り通って委員会?え?!

 後から考えると「両手に花」状態だったのね。生憎、いい男だなぁと思ったのは一人しかいなかったが。

 

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三つ子の魂三五歩

 薄給サラリーマンと結婚して金で苦労した母は娘二人をこう言いながら育てた。「女も自分の力で喰えるようにならなきゃダメよ」

 無口な父は何も言わなかった。これには別の理由もあった。なんであったか忘れたが。あることで「わたしがやりますから、今後、娘の教育に一切口を出さないで下さい」と宣言したのだそうだ。

 今はそうでもないが、子供は男子が望まれた時代、二番目は是非男の子をと願っていたらしく、幼稚園の頃までであったか、母はわたしを「坊や」「坊や」と呼んでいた。勿論、いやだった。屈辱を感じ、女で何が悪い?

 百万回生まれ直しても、女に生まれたい。唯、一回たりとも専業主婦として生きたいとは思わない。ま、一回位なら、う~んといい男に生まれてもてまくってみたいが、一回目がそれだと百万回生まれ直しても、になってしまうか。

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石の上三十四歩

 無理にでも石上三登志の874は471。所は石の上でなく、海の底。人魚三姉妹。退屈しのぎは庭造り。一番下のリトル・マーメイドは難破船の置き土産、若い男の像をその中心に据える。オー、なんと美しい!

 たとえ、一桁年齢といえ女が男の像を愛でる常ならざる所業に心臓がドコドコした。<絵のない絵本>に納められた<人魚姫>を繰り返し読んだのはその為だと後に覚る。銀幕の美男に一目惚れしたのは更に遡ること一年か二年。

 その昔、長谷川一夫、林長二郎と言うべきか、の映画を見た女性客は自分が見られたと錯覚し、一層想いを深めたと聞く。更にはあわよくば「お嫁さんになりたい」と夢み、実際そのスターが結婚すると人気が下がったりしたそうだ。といった類いの妄想とは初めから無縁であった。出てる映画を見たい!そして映画は別世界、この世のものではないので現実と混同しようもなかったのだ。

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柳家三三歩

 無理にでも落語の話をしなければならないタイトルである。わたしの一番つきあいの長い(中三から)友人は三三の師匠(と思ったが、間違ってたらごめんなさいよ)小三治のファンである。わたしもケッコー好きである。

 母は志ん生が好きでよくラジオの落語番組を聞いては一人で笑っていた。馬生、志ん朝も好きだ。志ん生は「二階ぞめき」馬生は「もう半分」志ん朝は「井戸の茶碗」がそれぞれのこの一席。志ん朝は中学が同窓で本当に若手の頃、頼まれたのだろう、やって来て講堂で噺でなく話をした。どこそこを受けたが断られ「来なくていいってもんを無理に行くこともないと思って独協学園に行きましたが」とかなんとか。その「どこそこ」がわたしの高校だったような気がしてる。志ん朝が定期的に独演会を開いたあの劇場の裏、いや表?の学校である。

 好きということでは五代目可楽、八代目柳好。晩年の柳好は可楽に似て来たと言われ、なるほどと思った。

 生きてる噺家で聞いてもいいのは小三治だけか。古今亭も一番長生きしたのは一番無茶をした親父だったとは。

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サバサバ三十二歩

 その絵本をいつから見始めたのか、しかと思い出せぬ。我々の頃は幼稚園で文字を教えることはなく、親たちも余計なことはしなかった。文章は大人が読んでくれたのだろう。

 実際そうだったが、奇妙なことにその件に関しては母との思い出は完全に消えてしまっている。父が読んでくれた記憶だけが残っている。<フランダースの犬>だったか、涙が溢れ、それを見た父が先を読むのをためらったことを覚えている。未だ字のよく読めなかった時期<絵のない絵本>を読んでもらい、やがて自分で読むようになった。おそらくそれが絵本でない本の、いや、<イソップ物語>であったか、生まれついての説教嫌い故、どうも好きになれず、忘れかけていたが、そっちが最初だったかもしれない。

 絵本も母が買うことの方が多かったのだろうが、父方面から湧いて来たような気がしてならない。本好きの父は二番目の娘が間違いなくその血を受け継いでいると見て、惜しみなく与えたのではないか?

 絵本を譲る時、些か惜しく思う気持ちを隠せなかったが、今はうんとこさ、惜しいぃ~~~book

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担架で三十一歩

 引くに引けず切る啖呵、やむにやまれず詠む短歌、動くに動けず出る担架

 <サンタンカ>と題して既に別のブログで発表済み、盗作ではないぞ、同一人であるぞ。<最後まで風流>廃人になって担架で運ばれる なんてのも。かやうに言葉と遊んで半世紀+2or3、そもそもの始まりは好男子の、ウムム、講談社のエロ本、なわけないだろ、絵本!

 従兄の子にそっくり譲り渡すことになった時、数えてみたら50冊ぐらいあった。今でも表紙や絵をよく覚えているのは<シンデレラ><雪の女王><白鳥の王子><幸福の王子>なんでぇ、みな、王家の話か?そうでぇ、オイラは王党派よ。雅子さんがお気の毒で・・・・・よよよ。weep

 <シンデレラ>は縦ロールがなんとも美味しそうで、じゃなかった、現実離れして魅力だったが、ガラスの靴なんてものがありうるのか、王子の手許に残った片方の靴だけがボロ靴に戻らなかったのはなぜか、不思議であった。最初の疑問は仏語から独語に訳す時の誤訳が発端と後に知り、解決するも二つ目は未だに???

 <雪の女王>は大人の女が男の子をさらう常ならざる展開に胸騒ぎがした。たとえ、一桁年齢であろうと大人の男が女の子をさらうのが常と認識していた。それもありかぁ?!

 <白鳥の王子>は白鳥にされた兄たちを妹が救う常ならざる展開に心臓がドコドコした。たとえ、一桁年齢であろうと妹を兄たちが救うのが常と承知していた。そんなの、ありぃ?!

 <幸福の王子>は像やつばめが喋るか?!貧乏人が急に金を持って行ったら怪しまれるだろうが、王子の像が丸裸になるまで誰も気づかなかったんかい?と異常な事だらけなのだが、中でも尋常ならざる事態は美しい像が若い男であったことだ。たとえ、一桁年齢であろうとその美が讃えられるのは女と刷り込み済みであった。いや、刷り込まれ済みと訂正しよう。

 十年ほど年旧りたる後、そうかぁ、そうだったのか、う~ん、それでいいのだ!

 

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そこがミソ三十歩

 家から風呂が消えたので離れの大浴場、銭湯とも言う、へ行く。張本人の従姉も近くに棲息している間はよく連れて行ってくれた。夏場は帰りにかき氷。あたしはモチロン氷いちご。従姉はレモン、そして必ず三ツ矢サイダー。頼んだ品が来るとまずサイダーを飲む、のではなく、かき氷の上に掛ける。そこがミソだが、降り積もった雪に雨、のグシャグシャ状態。遠慮しま~す。

 大人になって、思い出し、やってみた。もう一度という気にはならなかった。あれは関西のみぞれなるものに近いのだろうか?ある時わたしがメロンやデラウエアのこってり甘い汁は喉が痛くなるので食べないと言ったら「わたしは大丈夫。何を食べても声は出るわ。唐辛子の辛いのも平気で食べるから、あなた、韓国じゃないの?って韓国人の友達が言うくらい」

 激辛時代到来の、遥か以前のことだった。

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至福二十九歩

 上邑へ行くと必ず二階に上がり、決まってアイスクリームを注文した。ガラスではなく銀色の金属製の器だったように思う。白い半球の脇にはウエハスが添えられていた。特に美味しかったとの印象はないが、不二家へ行くより大人になった気分がしてそれが何より嬉しかった。

 至福の境地に些か水を差すのが母が水しか飲まなかったことだ。何も欲しくないと言うのだが、節約の為と分っていたので自分だけ食べるのが心苦しかった。

 一階がどのような作りになっていたのかどうにも思い出せないのだ。その側に通りに面したウインドウに水飲み鳥を置いている店があった。果たして何の店だったか。水飲み鳥も今や絶滅した。

 そこから程遠からぬ所にあったのが姉と一緒に東映の映画を見に行った帰りに寄った甘味処、切り立った山のように盛り付けたあずきアイスが名物で注文するとお姉さん方が「山一丁!」と威勢よく呼ばわるのだった。しかし、いつも二つの筈が「山二丁!」と聞いた覚えがない。映画を見始めた頃は大井セントラルばかりだったが、その山に魅かれ、小学3年の頃は大森で見ることが多くなった。見たい映画はみな見せて貰っていたのだから、どうやり繰りしたのかと又考えてしまう。

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不二家二十八歩

 明治の板チョコが普段のおやつだった頃、不二家のheart形ピーナッツチョコレートは最高の贅沢だった。(笑うな!)町のパン屋のクリームパンが何かの澱粉を黄色く色づけした紛い物だったのに対し、不二家のクリームコロネにはカスタードクリームが詰められていた。

 日々のおやつは子供の足で精々5分の店で調達したが、不二家までは15分、行く時は必ず母と一緒だった。それだけでも特別の場所の資格がある。その上、山王の住宅街を抜けて行くのだ。どこの家もひっそりして人と行き合うことも滅多にない。中でもよく覚えているのは前庭に棕櫚の植えられた洋館だ。あの頃は棕櫚が洋風と考えられていたようなのだ。ヨーロッパの庭にはまずなさそうであるのだが。そこは住所的には山王でなかったかもしれないとも思う。

 大森駅前の店は二階がパーラーになっていて何度か入っているのは間違いないのだが、斜め向いにあった上邑の印象にかき消されぼんやりしている。真後ろの高台の神社からは東京湾を見渡すことができ、行き交う船が鮮明に見えた。キネカ大森へ行った折、何十年ぶりかでそこに立って見ると高くなった建物に遮られ、知らない人ならその向こうに海があるとは想像すらできない景観が広がっていた。

 遠足と言えばハリスのチューインガムと森永のキャラメルが付き物だった頃、不二家のミルキーは高級な飴であった。その名の通り、ミルクっぽ~~~い味が喉にまで沁みて、しあわせいっぱぁ~いsign01 後年、上等なさらし飴も同じ程美味と発見するのだが、「登場!ミルキーの千歳飴」を目撃した時の口惜しかったこと。間に合わなかった!ン?早く、生まれ過ぎた?

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太菜二十七歩

 わが家ではほうれん草に対し小松菜を太菜と呼んでいた。なんてことはない。

 わが母の家では切り餡をなぜかヘソパンと呼び習わしていた。ある時未だ幼い一番下の弟に買いに行かせたら「そんなもん、ありませんよ」と言われ、ベソをかきながら帰って来たそうだ。以来、彼にとってヘソパンはベソパンになった。とは、聞いていない。

 ついていないことには、花柳界入り浸り適齢期になる前に太平洋戦争とおそらく兄二人の放蕩も手伝って家業は傾いていた。山っ気があり、終身雇用な人生は送れない性分であった。息子三人が揃って不肖であるのを憂いて祖母が良く当たると評判の占い師に見てもらったところ「男は皆ハズレですね」とバッサリ切られてしまったとか。しかし、今の世なら、娘三人だってグッチだナンチだのの一方でホストクラブ通いで身上潰しに一役、いや三役買っていたかもしれないではないか。

 「一生喰うには困らないが、金には縁がありませんね」とは母に下ったご託宣。これは見事に当たっている。が、大抵の専業主婦が「本当だったわ。占いの通り!」と言うだろうことも又確かなのだ。

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ニトロ二十六歩

 「大きくなったら何になりたい?」とみんな何度も訊かれて大きくなったぁ。筈。わが答え第1号は物理学者。物理学の何たるかも知らぬ頃。では、ナゼ?絵本で見たキュリー夫人の勇姿に「わだは日本のキュウリになる!」

 と言うよりもシャーレやフラスコ、試験管に魅せられた。だもんでクラブ活動が始まると物理部でなく化学部へ。女子は1年上の生徒だけ、翌年その人が卒業すると一人になってしまった。中学も3年間化学部にいたが、女子はほかに誰一人入って来なかった。2年の時、新入生が二人覗きに来たが男子ばかりと見るや尻込みしてとうとう中に入らなかった。その後は覗きに来る人すらなく。

 同級の男子仲良し三人組も同じクラブだったのでなんとなくメンバーに。以来、今に至るまでいつの間にか男の子クラブに仲間入りしている己を発見するのであった。

 マリ・キュリ→ノーベル賞→ノーベル→ダイナマイト→ニトロ→二十六 bomb

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≦ 二十五歩

 二十五→≦→不登校 になっていただろう、今、小学生だったら。アメリカ直輸入の民主主義がfresh out of oven、というより単にのんきな時代であった。尤も5,6年生を過ごした小学校の成績上位者はその多くが家庭教師についたり塾に通っていたという。目指すは同じ区にあるあの大学!

 けれど、皆が皆、その方向へ駆り立てられていたわけではない。と言って現在日本全国津々浦々の小学生が一人残らずあの大学目指して奮闘努力させられているわけでもないだろう。が、一応スタートラインには並ばされているように思える。いやいや、今の学校のことは分らない。

 よくよく考えてみると自分の頃もほかの学校のことは知らないし、小中学校となるとやはり成績上位の生徒たちの動向しか分らない。中学を出ていきなり就職した人もいたかもしれないが、極めて例外的だったろう。他のクラスには在学中に音楽教師と婚約、卒業と同時に結婚した人がいた。そのまま、順調に行っていると曾孫がいる?

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太!二十四歩

 horse 昔小島、今小牧。二十四!言ってみただけ。

 記憶の黎明期にある映像は星雲のようにぼんやりしている。確かに見たのを覚えているのか、それとも「・・・・・荷馬車が未だ走っていて馬が鞭で叩かれているのを見て可哀想だと泣いていた」との母の話が星座の図表のように輪郭をつけてしまったのか?

 「道端で死んでいる猫を可哀想だと撫でて泣いていた」のは覚えていない。その後一緒に暮らした三匹の犬の死に際しては大泣きした。友人の犬の死を知らされても涙がこみ上げて止まらなかった。それどころか、新聞の投書など全く知らない犬猫の死を伝える文を読んでも涙が滲んでしまう。

 「泣くシーンがあるとブリジットは死んだ犬のことを思い出して上手に泣いたものです」とロジェ・ヴァデムは語る。何年たとうと思い出せば、いつでも泣けるのだ。大地震などの災害が起こると真っ先に動物たちの身を案じてしまう。助け出されたとか又一歩に、基、一緒に暮らせるようになったとの報告を聞くと「良かった、良かった」と安堵する。

 実人生で犬猫以外で泣いたことがない、例の脅し泣きを除いては。わたしは鉄の女。なのでなく、泣くような局面に立たされたことがないだけ。つまり、何事も起こらなかった。今も小学生時代と同じ生き方をしてる気がする。仕事も色恋も―――話すようなことは何もない。

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葉っぱ2323二十三歩

 戦後間もない頃の山の手と呼ばれていた地域には一面雑草に覆われた空地があった。それは原っぱと呼ばれていた。囲いも何もなく出入り自由、たとえ鉄条網が巡らされていたとしても必ず入り口が開けられていた。数珠玉、赤まんまなどが子供の背丈程に生い茂り、藪枯らし、烏瓜、蚊帳吊り草、露草、車前草など、雑草天国、ガキ帝国であった。

 住宅がこわされ更地になって暫くすると雑草に覆われるのは今も同じだ。しかしそこは余りに小さく近頃は出入り不可が徹底している。生えている草も昔と種類が違い、子供の背丈に及ぶものがない。数珠玉などもう何十年も見ていない。沿道の躑躅はそこここで昼顔にのさばられているが、これも子供の頃に見慣れていたものと顔つきが違う。もし、原っぱが再現されたとしても子供たちがそこで遊ぶこともないだろう。

 あの土地は一体なんだったのだろう?振り返ってみると不思議だ。昔のマンガには空地に土管の積まれた光景がしばしば登場するが、確かにあった。その上に乗って遊んだ覚えもある。そもそも誰のものだったのだろう?原っぱなるものは。

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