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2009年4月

花を男子に、で八七歩

 ルトガー・ハウアーの大ファンでもない限り話題に上ること少なきサム・ペキンパーの「バイオレント・サタデー」は一人の人物のある行為によって鮮やかに記憶される“忘れじの映画”である。未だお美しくあられたルトガー・ハウアーの項に妻役のメグ・フォスターが軽く口吻けするのだ。

 贔屓の男優が誰をきつく抱き締めようが、糸を引くようなキスをしようが、くんずほぐれつ絡み合おうが何とも思わないが、このように男女逆転行為を目撃すると電流が走り、全身勃起状態になるくらいコーフンするのである。なりかわりたやsign03sign03sign03

 TVの「アダムスのお化け一家」で確かアダムス夫人がフランス語を発すると興奮したアダムス氏がその手の先から肩の近くまで順にキスしていくのが今風に言うとお約束であった。いつの日かこれぞわが美神なりと見定めた美しい雄の前に跪き、そのような行為に及びたいと夢みつつ、今も妄界をさすらい続けるのである。

 それは“Impossible Dream”として、なぜなら実人生では理想の美の主どころか唯の美男に出会うことさえ稀有なのだから、とにかく“ごっこ”でいいから花を贈りたい、女から男へ、なにがなんでもと狙っていたら、野郎友の中に対象発見。というより、絶好の機会を提供してくれたのが、小中と同級だったが高は他校、大は日本海側に行った男子。休暇を終えて戻る際見送りに行き、ありのままを話してムリヤリ贈ることに成功した。当時は未だ珍しかった大輪ガーベラ(今は大輪が外れた)一輪。居合わせた高校時代の友人と思しき二人に冷やかされたのは少々気の毒ではあったが、こちらの意図を確実に受け取ってくれる最適任者だったので辛抱してもらった。

 いやいや継がされた会社の社長に納まったが、いつの頃だったか、その業界では大手の会社に吸収合併されたようだ。その後の身の振り方までは分らない。それなりに満ち足りた人生を送ってくれていたらと祈るのみ。言い忘れたが、目鼻立ちの整った日本人形風の容貌であったことも贈る相手として迷わなかった理由の一つ。ほんこでなくてもそこはそれそれ兎のダンス・・・である。

 「抱かれたい男」なる表現を見聞きする度、独りごつ。「抱きたい男」と言え!

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野郎友と八六歩

 近年、着々と進行していた物忘れ症にいよいよ拍車が掛かって来たので「その話、もう聞いたよ」かもしれない。としても、わたしの好きなテーマなので今一度おつきあい願う。

 小学校上級生の時からこの方、男の友人が絶えたことがない。(既視感あり)みんな、元気かぁ~~~~sign02 最後の元クラスメイトとの音信が途絶えたのは三十代半ばであったか。いや、彼とは一度も同級にならなかったのだった。向こうが某国立大に在学中の折、「キミとは小中高と同じだったから、大学も同じとこ行こうかな」と冗談を言ったら「そうしなよ。一緒に机並べて勉強しようよ」

 超有名広告代理店から新興の組織へ移籍、自身の会社を設立、現在は米誌の日本版を手掛けているが、本国では一番有名な女性誌ながら本屋で見た覚えがない。雑誌とは余りつきあいがない上、中でも全く関心のない域なので目に触れないだけかもしれないのだが、奥付だけでも見てみたいので今度隈なく探してみようと思っている。

 大学中退組の二人は生きているかどうかさえ分らない。卒業して一流企業や霞ヶ関に行った男の子たちだって消息はつかめていないのだから、同じことの筈がどうしているかなぁと折りにつけ思い巡らすのはある時期から連絡をよこさなくなった二人なのだ。どうしちゃったかと巨大ハテナ・マークを点灯されるのはこっちの方かもしれないのだが。いや、それすら殆んどないか。

 彼らがどう思っていたかは知らないが、少なくともこっちが友人と思っているおのこたちはたまたま同級生、たまたま同僚がしばしば口にする「女の人には珍しい」「男に生まれればよかったね」といった類いの言を誰一人として唯の一言も発したことがない。それは見事なものだ。かつての級友たちと出遇うことはないだろうが、彼らに対する思いに変わりはない。もし、会えば「オー!どうしてた?」と一足飛びにその頃に戻るだろう。彼らと語り合えたことに感謝。今も同じ喜びを分かち合える楽しい人物に恵まれたことにwine

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はとこたちは、で八十五歩

 父は母親の長兄の息子(詩人、時々映画評論家)と年賀状のやりとり程度のつきあいも持たなかったようだ。会ったことすらないのかもしれない。親同士に行き来がなければ、いとこ同士などそんなものだろう。東京に出て来たのは父方の従兄と姪(わが従姉なり)だけで父の親戚で会ったことのあるのもその二人と従兄の息子たち(わがはとこたち)の計五人である。

 はとこたちも母方の従兄たちも成人してからは一度も会った覚えがない。父が生前自分の死を伝えるよう頼んでいたのも姉の息子一人だけだった。わが姉から聞いてその従兄の存在を初めて知った。ほかにも知らないいとこたちが何人かいるかいたのだろう。そもそも父の兄弟姉妹が何人いたのかも知らないのだった。その子供たち、その又子供たちとなったら。

 ところで会ったことのないはとこの存在を一人だけ知っている。だから、どーした、と言うと、どーしもしません、ハイ。

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When I'm Eighty Fourで、八十四歩

 “When I'm Sixty Four”が流行った頃、二十代だったか、とにかく若かったので六十過ぎればジジイとババア、なんの疑問もなく聞いていたが、その年に近づいた今は“When I'm Eighty Four ”ならともかくもと思う。膝の上に孫となると八十四では相当晩婚でないとなぁとも。

 わが母は「七十まででいいわ」が口癖であった。その年に達した時、訊いてみると「未だもうちょっと生きたいわねぇ」との答えが返って来た。そのもうちょっとが長くなり過ぎた。知人の母上は早く死にたいと言い続け、六十五で亡くなったそうだ。見事だ。

 私も七十で逝きたいと思っているが、なってみればもうちょっとになるのだろうと予想する。あの映画を見るまでは死ねない!これはきりがない。定年退世せねばなるまい。

 

 

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Yummy!で八三歩

 まずいものばかりだった子供時代、Uma~yと思ったのが黒砂糖の塊り。近所の人がそこら辺の紙にくるんでくれた。売ってるものではトラピストのバター飴。砂糖菓子と濃厚ミルク味が好きなことは今も変わりなし。ケーキはサントノレ、サンマルク、シブーストなどが最上位、中でもメレンゲシャンティーユ。売っている店は滅多にないが、メレンゲを買って来て、脂肪分の一番高い生クリームを泡立てれば、出来上がり。今夜も食したばかりです。

 ウルトラまずい給食の中で唯一楽しみだったのは固焼きそば、今でこそ即席メンで売っているが、当時は家では食べられない料理であった。もう一つはまっずーいコッベパンを揚げて砂糖をまぶしたやつ。これは似たようなものを母がよく作ってくれた。バン屋で貰うか買うかした食バンの耳を揚げ、砂糖をまぶす。

 ほかによく作ってくれたのが、おはぎ、お汁粉、密豆。その頃は近所にあんこ屋さんがあって姉と一緒に買いに行ったものだ。焼き芋屋さんもあったっけ。壷焼きだったと記憶する。うまかったなぁ。

 と、振り返ると人間の味覚には絶対的な基準があるとしか思えない。何かうまいものを知っていて別のものをまずいと判断したわけではないからだ。まずいものばかりで「ああ、まずい。ああ、まずい」と感じていたのだ。美についてもどうやら同じ装置が備わっているらしく思われる。

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やっと二十歳で、八十二歩

 bottleが飲めるぞsign01

そうは問屋が卸さなかった。アルコールを摂取すると発生するアセトアルデヒドを無害化する酵素には二種類あって残念ながら弱い方しか持って生まれなかったのである。酒の香り、味は好きなので赤ワイン丸々一本使って煮込んだ鶏や牛のシチュー、ボンボンショコラもケーキも酒の利いたものに目がない。

 酒そのものは半日でシャンペン、ワイン各一杯プラス1/2が精々。もし、我、強い酵素持たば、ヨーロッパの僻地を経巡り、その地でしか飲めないうまいワインを徹底調査する。帰って来たらその紀行文でも書いてどこかに売り込む。

 ヨーロッパワイン紀行が叶わずとも新宿ゴールデン街には入り浸り、差しつ差されつ。が酒だけならいいが、刃物振り回して刺しつ刺されつになるやもしれぬ。ので飲めない体質で良かったのかも。いや、獄中記でも書いて・・・・・。

 たかが酒と言う勿れ。酒豪に生まれていたら、わが人生は変わっていたと断言できる。弱い酵素も欠いている人はビーフシチューを食べても気分が悪くなり、ウイスキーボンボン一つで真っ赤になるというから、そこまででなかった幸運を喜ぶとしよう。と言って、アルコール完全拒否症の人がそれを不運と思っているか知る由もない。大学や会社での無理強い地獄は弱い酵素だけでは太刀打ちできないのは同じであるし。

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はいはいはNGで81歩

 あれはいつの頃であったか、取敢えず半世紀近く前ということで手を打とう。それがなんであったかは忘却の彼方、だからなんでもよいということにしておこう。「はい、はい」と答えたら、母様は「二つ返事はいけません。『はい』と一つでいいのです」と申された。

 二つ返事で引き受ける、とは頼まれ事を快諾する意であるからして「はい、はい」は好ましい返答の筈だ。ああ、それなのに、それなのに、ナニユエ?わけが分らぬまま、五十年、訓えを守った。七重の膝を八重に折り、頼まれても知らん顔。違うか。

 これもいつの頃であったか、同じくらいの昔、何ということもなく溜息をついたら「人の前で溜息をつくもんじぁありません。失礼です」と申された。「はい、分りました。もう、溜息はつきません」と誓って 五十年、猫の前でも溜息はついたことがない。人前でしてはならぬことは一人の時もしないように心掛けるべし。でないとどこかで出てしまう。だから、わがサイトを閑古鳥が飛び回っているのを見ても溜息はつかないのである。

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やれやれ、やっと、八十歩

 皆さぁ~ん、八合目まで来ましたゾ。あと、二十歩ですゾ~。(たぶん)

 元祖フリーター時々ニート、永久モラトリアム、独身貴族ならぬ親身帰属、永遠のwould-be writerに他の家族も何も言わなかったのは父の意向に従ったからではない。それぞれが勝手に何も言わず、家に置いておいた。

 母親なら分らなくもないが、芸術芸能志向皆無の姉の寛容という消極的な協力は未だしも服を買ってくれたり保険料を払い込んだりの金銭による積極的(?)協力は謎である。作品を読んで愛読者第一号になったわけでもない。おそらく一行も読んでいない。「あの子はほんとによくやるわねぇ。わたしなら、考えられない」と母が言った。わたしもだ。

 実の姉はともかくその夫となれば、文句の一つ二つ言ってもよさそうなのに気振りもない。別に我慢しているわけではない。当然と思っているらしいのが不思議である。

 しかし、何も言わないのも問題で、子供は十八、遅くとも二十歳までに家を追い出すべきだろう。なんとか職業と呼べるものにつくか、野垂れ死にするか。実際にやっていれば、後の方の公算が大きい。今でもその可能性はある。覚悟の上でやって来たのでどうということはない。「67歳、孤独死」と書かれるのはかなわんが、読者を持たない孤独に比べれば身寄りのないそれは唯それだけのこと。

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