日記・コラム・つぶやき

100万回出逢っても/10・10、100歩目

 note I am eighteen.,goin' on nineteen . note

 所は街全体に連帯感漂うありし日の新宿、映画が取り持つ仲の友人に案内され、初めて足を踏み入れた名物喫茶、その通路で行き合った若者に一目惚れ、一体誰?

 導かれたテーブルには既に友人の知り合いが二人座っていた。紹介されて席につき、暫くすると最前の若者が目の前に座ったではないかsign01 heartheartheart

 小4の時からheartの男の子にはこちらからloveletter攻撃、この時も正面突破。ハハハ、やったぜ!

 ではあったが、つきあったという程のこともなく、あ~と言う間もなくsoon end。来る者は拒むが、去る者は追わじ。気のない相手をいつまでも追いかける奴の気が知れん。

 とは言え、もし、今、あの時のまゝnote He is nineteen, goin' on twenty note 現れたとしたら、又、一目惚れすることは疑えない。それは今でも想っているとか再会を希っているというのとは違う。若い頃、銀幕の美男に一目惚れしたのと同じで今でも往時の彼らにはheartheartだが、GG化した現状には興味がない。

 100万回出逢ったら、100万回恋をする。そして、その度に異なる軌道を回る二つの彗星の如く、出逢いは一瞬で終わるだろう。いい男で面白い人物、それ以外♂に求めるものはない。「タイプ、タイプ!」の男は滅多にいないのだ。

 cafe100円、名画座100円の時代であった。一件置いた隣りの喫茶店の方が好きで消えたのもこちらが先だった。狭くてテーブル、椅子も小さい。床は木で万遍なく毛羽立っていた。コーヒ-、紅茶80円なり。トイレの壁全面埋め尽くした落書きが壮観であった。今にして思えば、撮っておくのだったなぁ。写真を撮る習慣、未だなし。友人から不要になったcameraとフィルムを、姉の旦那からは最新でないデジカメを譲り受けたが、そのまゝになっている。

 向かいの名曲喫茶は外観が、多分内装も、変わったが、現在も営業している。流石に名曲とは謳っていないようだ。レコードが高く、再生装置も普及していない頃、クラシック音楽ファンはそういう喫茶店で音楽を鑑賞したのである。今、絶滅危惧種となった普通の喫茶店のコーヒー、紅茶の値段は500円、名画座の入場料金1000円。当時、LP3000円前後。国内版CDが同額ということは殆んど値上がっていない唯一の商品である。なんて、えばるんじゃないよ!レコードがべらぼうに高かっただけなのだ。今のCDも高過ぎる。それでも日本のタワーレコードは生き延びている。いつまで持つか、競争だdash

 pen 今回をもって、60BABAのG-MAN噺は一応終了である。予告したように番外編がポツリポツリやって来る可能性はなきにしも非ず。

♪(o ̄∇ ̄)/  「はじめの一歩」からおつきあい下さった方がいらしたら、心から感謝致します。一回限りの偶然の訪問者の方もなにかのご縁、皆さまに幸あらんことを。

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窮々自適で、九九歩

 貧困家庭とは言えないだろうが、隣り近所、知る限りの一族郎党の中では間違いなく一番の貧乏人だったせいか、窮乏生活をめぐるあれやこれやを読むのが好きだ。いや、来たるべき爪に火生活に備え、先達の創意工夫、究極の叡智を参考にしようとの下心が働く為だろう。取り分け、売れない頃の役者の懐旧談は面白さでも群を抜く。

 From Aに載っていたある男優の逸話、一緒に住んだ方が経済的だからと堅気の弟を口説いて同居、四畳半に弟、三畳に自分、服を買う時も自分がお下がりを着られるサイズのものを買わせた「情ない兄貴でした」テレビに出るようになってやっと喰えるようになった、と。えらい弟さんだ。

 「五円玉二つで年を越したこともあります」(大地康雄)所持金合計十円ではあるが十円玉でないとこが凄い。いや、一円玉も数個、ないし十数個あった筈だなどと言ってはならぬ。「砂の上のロビンソン」ではモデルハウスでの理想の家庭を演ずることに倦み、家出した果てにホームレスまで経験する男。先輩からコンビニの賞味期限切れの弁当の賢い食べ方を教わる場面は大いに参考になった。

 いつ何時青テントの住人になるか分らぬ身だが、人生の最後に地べたから世界を見直すのも悪くないと思っている。Big Issueは販売人に行き合えば必ず買う。「今月の人」と題された販売者の紹介記事が一番の楽しみと言ったら不謹慎か。親近感を抱いてのこと故、許されよ。

 まずは窮々自適生活へ、いざ!

 

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最終回は休映と来て、98歩

 大晦日の最終回は休映というニッポン国映画館のふざけた習慣はそろそろやめにしたらどうか。と、もう二十年以上思い続けている。大晦日こそオールナイトだnightfuji

 今時の若ぇもんが「今夜は紅白だから早く帰ろ」なぞと考えるとしたら、不届き千万、不渡り手形一千万、禁固一千年の刑に処す!それとも里帰りして家族と正月を過ごしたい人が映画館業界には多いのだろーか?はたまた映画ファンが東京からいなくなるからなんだろか?

 ウ~ム。つらつら考えてみるに今時の若ぇもんがオールナイトで盛り上がる映画なんぞ見当もつかない。健さんの仁侠映画には来そうもないし、ブルース・リーも以前ほどの集客力はなさそうだし、ウ~ン、分らん!かく申すBABAが行く気満々になる特集はというとお竜さん、新諸国物語、工藤栄一、相米慎二、ドン・シ-ゲル、ボリス・バルネット、バート・ケネディ、マルクス・ブラザース、デイヴィド・リンチ、カール・テオ・ドライヤー、ジョナス・メカス、土本典昭、三木聡・・・そうだ、三木聡!彼なら若ぇもんも来るだろう。

 会場は三木映画のメッカ、テアトル新宿。当夜に限りwinebeer片手の鑑賞可。riceballcakebottlecafenoodleも飲食自由!但しnosmoking。上映効果を妨げますので、オッホン。「亀は意外に速く泳ぐ」「ダメ人」「図鑑に載ってない虫」「インスタント沼」プラス「時効警察」一編。そうと決まったら、劇場に直訴じゃぁ~~~~。

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そんな話はないんなぁ、で97歩

 いつの世も大人たちは子供と見れば、千年一日の如くあの質問を投げ掛ける。「大きくなったら、何になりたい?」

 今なら、宇宙飛行士、パイロット、ボクサー、パティシエール、指揮者となんでもありだろうが(案外そうでもなかったりして)わが幼少期の女子的答えの断トツ1位は「お嫁さん」今、又、首位奪回?2位が「看護婦さん」少し離れた、多分、3位が「先生」

 その頃も長じてからもその三つには全く関心がなく、今後100万回生まれ直してもそのどれかを答えることはないだろう。小学生の時は「物理学者」と答えることが多かったように記憶するが。こうした事柄は他人の方が良く覚えていたりするものだが、その他人との接触はとうに途絶えているので確かめようがない。

 中学卒業時の寄せ書きには面倒なので「良妻賢母」とふざけ半分おざなり半分で書き込んだ。傍目にはそう見えたわが母は憧れの(!)サラリーマンの奥さんになったものの、一流企業のエリート社員とは程遠い薄給取りだった為「これからは女も自分で稼がなくちゃダメよ」と言い聞かせながら、娘たちを育てることとなった。

 当時の母の考えで「女に向いた職業」の一番手は薬剤師。上の子は親の言うことを良く聞くと言われるように姉は中学ぐらいまではそう答えていたようだ。本当になりたいと思ったわけでなく、その後も特に何かを目指した気配はない。

 わが家族はわたしが小説を書いているとか作家志望だとか他人にしゃべり散らすようなことはしない。だから、どこかのおっちょこちょいが間違って一つくらい縁談を持って来ないかと期待したのだが、そんな話は全くなかったようだ。「自分で稼いで生きて行くので結構で~す」と断ってみたかったのになぁー。残念!

 残念無念は母の方だろう。中学までは「末は博士か大臣か」と将来を嘱望され、母自身は「医者か弁護士に」と密かに期待していたに大学にすら行かなかった。そのことを知った従兄は「勿体ないなぁ」と言ったそうだ。わざわざそれを伝えたのは自分の思いを直に吐露するのを憚り、他人の口を借りて表したかったからだろう。まことに申し訳ないことをしたと思う。無駄に期待させて。

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クローン人間と96歩

 クローン人間を簡単に作ることができたとして、それを望むかと言えば、答えは否。コンピューターの引越しのようにわたしの記憶を丸々引き継ぎ、あと50~100年生きるというなら、肯へと大いに傾く。その場合、このわたしはどうなる?クローンが病気になった時の為の臓器提供物?となると無用の長物の最たるものが脳?!

 生きる時代が異なるとはいえ、わが記憶を引き継いだクローンは同じ好み、同じ考えで同じようにしか生きられないだろうから、じき己に飽きるだろう。わたし自身、既に幾度か経験しているのでクローンは初めからうんざりしているかもしれない。だが、退屈はしないだろう。ある条件の下なら、10万年生きても退屈しない自信がある。

 その条件とは、賃労働、家事労働なし。

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95歩と1/2

 1414この269もカウントダウン5。一応100歩で終了予定。番外チョビチョビはあるやもだが、あと2月足らずで62年生きて来たことになるとはいえ、ほむらさんもびっくりの「人生の経験値」の低さゆえネタがない。

 実人生と関わりを持つ「思い出の映画」「思い出の曲」も全くない。いつか書いたようにないない尽し。東京競馬場で馬上20秒の体験乗馬を果たしたからは残るは飛行機と地下鉄副都心線の初乗りのみ。がんばんべ。airplanesubway

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平均睡眠時間9.5時間で、95歩

 フランス人の平均睡眠時間は9.5時間!と思ったら、9時間近くで、2位アメリカの8.5時間と混同したようだ。どちらにしても長い。去年だったか、日本人の平均睡眠時間は7.5時間で以前より短くなっているとの報告を聞いて、それでも充分長いと思う私はどうすればそんなに取れるのか不思議でならなかった。平均であるからは3、4時間の人もいれば10時間以上の人もいるわけで、1日の半分を寝て過ごすとは羨ましい限りだが、年寄りのいつでもどこでもこっくりこっくりを入れてのことか。

 夜2時に寝て朝6時に起きる生活が長かった。若い頃はそれで日中睡いということもなかった。一時期、12時前に寝ていたが、今は又平均3、4時間に戻り、しょっちゅう睡い。二十代に戻れたら「爆睡する」と言って笑われたが、連続して4時間以上眠ることができない身としては午過ぎまで「一気、一気」は最高の贅沢、電車で本当に寝てしまっている若い人を見ると心底羨ましい。

 いつでもどこでもこっくり人生を堪能してから死にたいものよと願いつつ、慢性急性ネムイ病と戦う日々、なぁーに、いずれ幾らでも寝られる日が来るのだ、今は少しでも長く起きているとしよう。

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1Q48で、九四歩

 本屋のレジに村上春樹の新著と思しき本が平積みされているのを見て「IQ(アイキュウ)84」と読み、今度はその数字のIQの主が主人公か、テーマなのだと合点した翌日であったか、「1Q84」でイチキュウハチヨンと発音するのだと知った。そこで渡りに舟と1Q48に便乗することにした。

 上野千鶴子、森巣博、相米慎二は1948年生まれである。競馬界では今なお語り継がれる花の十五期生、岡部幸雄、柴田政人、福永洋一が1948年生まれである。これだけでもう1948生まれには大物多し、翻ってわが生年1947生まれは小島太、安田富男などトボケた奴はいるが際立った論客は見当たらない、ショボ~~ンとなってしまうのである。

 南伸坊、北野武、沢田研二、鈴木啓示、金井美恵子、デビッド・ボウイが1947年。調べれば、「大物だァ!」の方は幾らもみつかり、丹念に当たればどの年もさして変わりがないのかもしれない。スポーツの世界では同時にデビューすることが多いのである特定の生年の偏りが際立つ。野球選手では1946年と1948年、その為、大ファンだったにも拘らずかなり長い間鈴木啓示は1948年生まれと信じ込んでいた。47年とあるのを見て、これ、間違ってると手持ちの資料を片っ端から引っ繰り返してみたら、どれも47年になっていてのけぞった。アルバート・フィニー、ジョゼ・ジョヴァンニを“殺した”前科がある身、生年の記憶違いなど微罪ではあるけれど、思い込むと真実が見えなくなる脳の仕組み、恐るべし。裁判員の皆さま、ご油断召さるな。汝の敵は汝なり。 

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組に一人で、九三歩

 大学へ進学しない異分子が組に一人海豚犬かの高校に身を置くとその気ゼロどころかマイナス813でもどこか一つくらいは受験せにぁならんのが難儀であった。今のように映画の専門学校があれば、行く気充分で試験を受けただろうが、唯一あった某大学の映画科はどうも気が乗らず、次善の策として別の大学の演劇部を選び、予定通り行かなくていいことになった。

 大樹小説が出版され、版を重ね、主要な人物を演じられる役者が現れたら、自ら映画も撮るつもりでいたが、その下準備として映画学校を望んだわけではない。すべては小説の為。主人公が映画を撮る人でもあったので技術を学び、実践を体験してみたかったのだ。批評をするにも技術の知識は不可欠だ。小説がダメなら映画批評があるさと計算したのではない。そちらから攻めて本丸攻略を考えないではなかったが、フツーの映画批評家になるには映画会社の試写室で見なければならない。それがまず耐え難い。何より小説同様需要がなかっただろう。男気溢るる文章なら「間に合ってます」今でも男たちは女っ気滴るテーマ、文体にはそれだけで高得点を与える。自分たちの聖域が脅かされる気遣いがないからだ。

 「腐女子彼女」を見る限り、似て非なるものと思う。唯、友人にやおい系の意味を教えてもらった時ははたと膝を打った。「やまなし、おちなし、いみなし」まさにわが小説!それが400字詰め原稿用紙で1万5千から2万枚では売れるわけがない。今ならブログで連載するところだ。十人の愛読者を獲得する自信はあるsign03sign03sign03sign02

 東京芸術大学大学院映像研究科の修了生たちの活躍を伝える記事の中で講師の黒沢清監督が「気をつけるべきなのは、映画には作り手の生き方や世界観が出るということ。映画に関して知っていても、社会を知らなくて恥ずかしい作品を作ってしまわないために日々鍛えておくよう言ってます」と語っている。その通り。極論を言えば、監督は映画なんぞ知らなくていいのである。「人生の経験値」(穂村弘)の高いもん勝ちである。映像のセンスについては生まれつきだから、これも学ぶことはできない。書を捨てなくていいから、街へ野へ出てなんでも見てやろう、やって野郎(女郎も含む。但しジョロウではない)たれ。

 役者に関しても演技の勉強などしなくていい。「心は舞台、財布はテレビ」が相場と決まっているのだから、目指した時点から習い事はたとえ初歩だけでも片っ端から身につけておくべし。スキー、スケート、ピアノ、ヴァイオリン、お茶にお花に日本舞踊、箏三味線、太鼓に鼓、自転車、自動車、オートバイ、水泳、空手、柔道、テコンドウ、剣道、弓、槍、薙刀、手裏剣、吹き矢はいいとして、乗馬と英語は必須。いつ何時時代劇や西部劇の依頼が来るやもしれぬ。今や中国、香港、台湾、韓国、タイなどの映画に日本の俳優が出るのは日常茶飯、その逆も然り。いやでも応でも意思の伝達は英語になるからだ。「目指せ、ハリウッド」ではない!(やたらハリウッドと崇めるのにろくなのはいない。ブツクサ)

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急に思い出したこと、で九二歩

 それは1972年3月8日のことだった。所は文芸坐、映画を見終わって後方扉へ向かって行くと通路沿いの席に座っていた見知らぬ青年がいきなり声を掛けて来た。「▽▲さんですね?」ええ?!なんでわたしの名前を知ってるの?「この間、★☆のとこで・・・・」と小中高同窓で「一緒に机並べて」と冗談を言った友の名を挙げた。確かに★☆宅で何かの会が開かれ、彼の友人十数名が集まった。が、一向に覚えがない。話をしたのは左右2、3人の範囲なので離れた所にいたその人とは言葉を交さぬままだったらしい。近くのそば屋に座を移して話してみると★☆のクラスメイトと知れた。同窓生!

 「今、大阪で働いているんです」「え、わたし、近々大阪へ行くんですよ、映画を見に」そして自主上映会の催されるホール名を告げると「そこなら上がホテルになってますから、そこに泊まるといいですよ」

 なんと間のいいことか。この出遇いがなかったら、旅行なるものは一切しないわたしはとんでもなく遠いホテルを予約してしまったかもしれないのだ。その後お会いすることもなかったが、今に至るまで感謝している。わが人生二番目の幸運かもしれない。(笑うな)

 その後、★☆に会った折、この話をすると「あいつ、高校卒業してすぐ就職したんだぜ。凄いだろ?」「うん、凄い」なんせ進学しない生徒がクラスに一人いるかいないかという学校だもんで初めから就職する人間がいるとは思いもよらなかったのだ。衝撃が大き過ぎて理由を訊きそびれた。家庭の事情だろうか?としたら、無念だろうな。同級生を見ていてこういう連中の巣窟には行きたくないと思ったか。一刻も早くつきたい職があったのか。しかも大阪。ひょとして家を出たかった?

 そんな古いたまたまの出遇いの日付を何故覚えているかというと覚えてはいない。1964年からこの方、作品名、劇場名、日付を「ノートに書いとこ」しているからだ。文芸坐で見たのは「サムライ」「ギャング」大阪で見たのは1日目「ワイルド・バンチ」「ポイント・ブランク」2日目「スイート・チャリティ」 

 

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わが青春に悔いなし、と九一歩

 十代後半から二十代前半を青春時代とすれば、本当はアラハタまで?、映画を見ることと小説を書くことに明け暮れた。そのことに悔いはない。見たいと思う映画はほぼ見ることができた。

 身過ぎ世過ぎに使う時間が増えたのと小説は書いていないことを除けば、今もさして変わりがない。アラカンを過ぎてもアラハタの頃と髪型も服装も暮らしぶりもほぽ同じである。元祖フリーターのまま、常に最低賃金で働き、使える金は映画や音楽、本に使う。仕事を選ぶ時の最優先順位は時間と場所、次に時給、最後に内容。法律や道徳に抵触しない限りなんでもいいのである。

 見たい映画は大体見られる“青春時代”も今年が最後になるかもしれない。後三年ほど賃労働をしないと爪に火生活もままならない。身から出た錆というやつで嘆くつもりはない。唯、少しは世の為人の為に役立っていると自負できる、或いは多少なりとも自己実現可能な仕事に一度もつかなかったことに全く悔いがないと断言するにはためらいがある。

 映画に対しても何一つ報いることができなかった。せめてものことに友人たちには電子or原始メールで気に入りそうな作を推奨し、不特定少数向けブログで布教活動を展開するのが精々である。只今公開中の作品では「ウエディングbellベルを鳴らせ」「チョコレ-ト・ファイター」がウルトラミラクルアリナミンAチョコラBBオロナミンCリポビタンDメガシャキE映画。

 日本映画は取り扱う範囲が半径3メートル四方で面白くないとの意見もあるが、それでも食指動きっぱなしで疲労骨折寸前、になってもどうにも止まらないのは三十代を中心にその前後十年辺りに見どころ大いにありの男優が雨後の筍どこではない、雨水の溜まった甕のぼうふらの如くウヨウヨしているからなのだ。長年日本にはろくな男優がいないと嘆いていたのがウソのようだ。長生きはするものだ。

 と、「チョコレート・ファイター」を見て思った。遂に第二のブルース・リー誕生である。次作を見るまで死ねない。

* やはり、ぼうふらはうまくないか。蛍の木に群がる蛍の如く?満天に輝く星の如く?とにかく、いっぱいってことです。

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悪戦苦闘で、九十歩

 う~ん、う~ん、う~ん、辛い。五月は四月に増して映画と競馬が忙しい。体も忙しいが金も忙しい。そこへもってきて今夜ドライヤーがこわれた。プリンターのインクも切れた。明日は映画の前に電気屋にゆかねば。今週はともかく来週は競馬場へもゆかねば。再来週も行きたい。が、疲れるのであった。

 天候のせいか不況のせいか、クラシック・レースの狭間のせいか、程良い混み具合のヴィクトリアマイルでさえ帰って来たら、ど~っと疲れた。お遊びでちこっと押さえた2、3着の複勝しか当たらなかったせいもあるが、単に歩き回ってくたびれただけなのだから、トホホ極まれり。ダービーとなったら、押すな、押すな。家でTV観戦のつもりがJRAのHPなぞ覗いた為に少なくとも場外へは出かけねばならない破目に。レーシングプログラムがどうしても欲しいのダ。

 なんてことを書く為に始めたブログではなかった。例によって語呂合わせで悪戦九十しているだけなのである。既に書いたと思うが、東京人は言葉遊びが大好きなのだ。オークスのアタマはブエナビスタで固い。豚インフルエンザ、メキシコはスペイン語圏!以下は競馬ファンになって二、三年目に作った金言である。

 horse 駄洒落で馬券は当たらない。たまに当たるが癪の種。dollar

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役者の怨霊が、で八九歩

 先生についたわけでなし、一人で練習も殆んどしないが、カンツォーネ歌手張りの声が出る。その体格からは想像できない程の声量である。カラオケにも行かない。思いっきり歌うのはストレス発散に最適と言われ、実際その通りなのだろうが、完全防音の部屋でもなければ試すこと能わず。

 歌うのは確かに気持ちがいいが、更にいいのは狂言や歌舞伎の台詞を言う時なのだ。歌手になりたいと思ったことはないが、役者にはなりたかったし、今からでもなりたい。大劇場の芝居には全く関心がない。(歌舞伎は大劇場かも)劇場自体にも興奮しない。血が騒ぐのは決まって小さな劇場、そこで上演される芝居なのだ。「寝盗られ宗介」の楽屋など映画で見てもカッカカッカして来る。

 歌、オペラは「ぜんぶDNAのせい」にできるが、芝居っ気は知る限り縦にも横にも辿れないので先祖の誰かが旅回りの役者を殺め、そいつの霊が取り憑いているのだ。と思うことにしている。

 松の木でも可。ご連絡お待ちしてます。

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8-8で、八八歩

 ゾロ目、それも8-8が好きで、8枠に来そうな馬が複数頭入った時はわざわざ枠連を買う。先々週の皐月賞は当然8-8と1-8、当てに行ったが、大外れを喰らった。保険の単勝のみ的中。元は取った。バク才のないビンボー人が長く続けようと思ったら、損をしない賭け方をせねばならぬのだ。

 天皇賞はケンしたが、競馬場へ出かけていれば8-8を厚めに買っただろう。そして保険の単も外れ。

 馬連は3-13が好きで少しでも見込みがありそうだと100円なりとも購入、ようやく的中したら、2着同着で配当が半額になる憂き目。帰ってから録画を見て驚いた。わが2着馬は4角最後方、到底届かない位置から飛んで来て誰もが前の2頭で決まったと信じた瞬間、間に合ってしまったのだ。そちらの馬券を持っていた人の落胆はいかばかり。

 枠連はいずれなくなると聞いた。テレビのアナログ放送と同じ運命だ。マークシートからゾロ目印が消えて久しい。あれを塗り潰すのが楽しかったんだけどなァ。

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花を男子に、で八七歩

 ルトガー・ハウアーの大ファンでもない限り話題に上ること少なきサム・ペキンパーの「バイオレント・サタデー」は一人の人物のある行為によって鮮やかに記憶される“忘れじの映画”である。未だお美しくあられたルトガー・ハウアーの項に妻役のメグ・フォスターが軽く口吻けするのだ。

 贔屓の男優が誰をきつく抱き締めようが、糸を引くようなキスをしようが、くんずほぐれつ絡み合おうが何とも思わないが、このように男女逆転行為を目撃すると電流が走り、全身勃起状態になるくらいコーフンするのである。なりかわりたやsign03sign03sign03

 TVの「アダムスのお化け一家」で確かアダムス夫人がフランス語を発すると興奮したアダムス氏がその手の先から肩の近くまで順にキスしていくのが今風に言うとお約束であった。いつの日かこれぞわが美神なりと見定めた美しい雄の前に跪き、そのような行為に及びたいと夢みつつ、今も妄界をさすらい続けるのである。

 それは“Impossible Dream”として、なぜなら実人生では理想の美の主どころか唯の美男に出会うことさえ稀有なのだから、とにかく“ごっこ”でいいから花を贈りたい、女から男へ、なにがなんでもと狙っていたら、野郎友の中に対象発見。というより、絶好の機会を提供してくれたのが、小中と同級だったが高は他校、大は日本海側に行った男子。休暇を終えて戻る際見送りに行き、ありのままを話してムリヤリ贈ることに成功した。当時は未だ珍しかった大輪ガーベラ(今は大輪が外れた)一輪。居合わせた高校時代の友人と思しき二人に冷やかされたのは少々気の毒ではあったが、こちらの意図を確実に受け取ってくれる最適任者だったので辛抱してもらった。

 いやいや継がされた会社の社長に納まったが、いつの頃だったか、その業界では大手の会社に吸収合併されたようだ。その後の身の振り方までは分らない。それなりに満ち足りた人生を送ってくれていたらと祈るのみ。言い忘れたが、目鼻立ちの整った日本人形風の容貌であったことも贈る相手として迷わなかった理由の一つ。ほんこでなくてもそこはそれそれ兎のダンス・・・である。

 「抱かれたい男」なる表現を見聞きする度、独りごつ。「抱きたい男」と言え!

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野郎友と八六歩

 近年、着々と進行していた物忘れ症にいよいよ拍車が掛かって来たので「その話、もう聞いたよ」かもしれない。としても、わたしの好きなテーマなので今一度おつきあい願う。

 小学校上級生の時からこの方、男の友人が絶えたことがない。(既視感あり)みんな、元気かぁ~~~~sign02 最後の元クラスメイトとの音信が途絶えたのは三十代半ばであったか。いや、彼とは一度も同級にならなかったのだった。向こうが某国立大に在学中の折、「キミとは小中高と同じだったから、大学も同じとこ行こうかな」と冗談を言ったら「そうしなよ。一緒に机並べて勉強しようよ」

 超有名広告代理店から新興の組織へ移籍、自身の会社を設立、現在は米誌の日本版を手掛けているが、本国では一番有名な女性誌ながら本屋で見た覚えがない。雑誌とは余りつきあいがない上、中でも全く関心のない域なので目に触れないだけかもしれないのだが、奥付だけでも見てみたいので今度隈なく探してみようと思っている。

 大学中退組の二人は生きているかどうかさえ分らない。卒業して一流企業や霞ヶ関に行った男の子たちだって消息はつかめていないのだから、同じことの筈がどうしているかなぁと折りにつけ思い巡らすのはある時期から連絡をよこさなくなった二人なのだ。どうしちゃったかと巨大ハテナ・マークを点灯されるのはこっちの方かもしれないのだが。いや、それすら殆んどないか。

 彼らがどう思っていたかは知らないが、少なくともこっちが友人と思っているおのこたちはたまたま同級生、たまたま同僚がしばしば口にする「女の人には珍しい」「男に生まれればよかったね」といった類いの言を誰一人として唯の一言も発したことがない。それは見事なものだ。かつての級友たちと出遇うことはないだろうが、彼らに対する思いに変わりはない。もし、会えば「オー!どうしてた?」と一足飛びにその頃に戻るだろう。彼らと語り合えたことに感謝。今も同じ喜びを分かち合える楽しい人物に恵まれたことにwine

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はとこたちは、で八十五歩

 父は母親の長兄の息子(詩人、時々映画評論家)と年賀状のやりとり程度のつきあいも持たなかったようだ。会ったことすらないのかもしれない。親同士に行き来がなければ、いとこ同士などそんなものだろう。東京に出て来たのは父方の従兄と姪(わが従姉なり)だけで父の親戚で会ったことのあるのもその二人と従兄の息子たち(わがはとこたち)の計五人である。

 はとこたちも母方の従兄たちも成人してからは一度も会った覚えがない。父が生前自分の死を伝えるよう頼んでいたのも姉の息子一人だけだった。わが姉から聞いてその従兄の存在を初めて知った。ほかにも知らないいとこたちが何人かいるかいたのだろう。そもそも父の兄弟姉妹が何人いたのかも知らないのだった。その子供たち、その又子供たちとなったら。

 ところで会ったことのないはとこの存在を一人だけ知っている。だから、どーした、と言うと、どーしもしません、ハイ。

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When I'm Eighty Fourで、八十四歩

 “When I'm Sixty Four”が流行った頃、二十代だったか、とにかく若かったので六十過ぎればジジイとババア、なんの疑問もなく聞いていたが、その年に近づいた今は“When I'm Eighty Four ”ならともかくもと思う。膝の上に孫となると八十四では相当晩婚でないとなぁとも。

 わが母は「七十まででいいわ」が口癖であった。その年に達した時、訊いてみると「未だもうちょっと生きたいわねぇ」との答えが返って来た。そのもうちょっとが長くなり過ぎた。知人の母上は早く死にたいと言い続け、六十五で亡くなったそうだ。見事だ。

 私も七十で逝きたいと思っているが、なってみればもうちょっとになるのだろうと予想する。あの映画を見るまでは死ねない!これはきりがない。定年退世せねばなるまい。

 

 

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Yummy!で八三歩

 まずいものばかりだった子供時代、Uma~yと思ったのが黒砂糖の塊り。近所の人がそこら辺の紙にくるんでくれた。売ってるものではトラピストのバター飴。砂糖菓子と濃厚ミルク味が好きなことは今も変わりなし。ケーキはサントノレ、サンマルク、シブーストなどが最上位、中でもメレンゲシャンティーユ。売っている店は滅多にないが、メレンゲを買って来て、脂肪分の一番高い生クリームを泡立てれば、出来上がり。今夜も食したばかりです。

 ウルトラまずい給食の中で唯一楽しみだったのは固焼きそば、今でこそ即席メンで売っているが、当時は家では食べられない料理であった。もう一つはまっずーいコッベパンを揚げて砂糖をまぶしたやつ。これは似たようなものを母がよく作ってくれた。バン屋で貰うか買うかした食バンの耳を揚げ、砂糖をまぶす。

 ほかによく作ってくれたのが、おはぎ、お汁粉、密豆。その頃は近所にあんこ屋さんがあって姉と一緒に買いに行ったものだ。焼き芋屋さんもあったっけ。壷焼きだったと記憶する。うまかったなぁ。

 と、振り返ると人間の味覚には絶対的な基準があるとしか思えない。何かうまいものを知っていて別のものをまずいと判断したわけではないからだ。まずいものばかりで「ああ、まずい。ああ、まずい」と感じていたのだ。美についてもどうやら同じ装置が備わっているらしく思われる。

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やっと二十歳で、八十二歩

 bottleが飲めるぞsign01

そうは問屋が卸さなかった。アルコールを摂取すると発生するアセトアルデヒドを無害化する酵素には二種類あって残念ながら弱い方しか持って生まれなかったのである。酒の香り、味は好きなので赤ワイン丸々一本使って煮込んだ鶏や牛のシチュー、ボンボンショコラもケーキも酒の利いたものに目がない。

 酒そのものは半日でシャンペン、ワイン各一杯プラス1/2が精々。もし、我、強い酵素持たば、ヨーロッパの僻地を経巡り、その地でしか飲めないうまいワインを徹底調査する。帰って来たらその紀行文でも書いてどこかに売り込む。

 ヨーロッパワイン紀行が叶わずとも新宿ゴールデン街には入り浸り、差しつ差されつ。が酒だけならいいが、刃物振り回して刺しつ刺されつになるやもしれぬ。ので飲めない体質で良かったのかも。いや、獄中記でも書いて・・・・・。

 たかが酒と言う勿れ。酒豪に生まれていたら、わが人生は変わっていたと断言できる。弱い酵素も欠いている人はビーフシチューを食べても気分が悪くなり、ウイスキーボンボン一つで真っ赤になるというから、そこまででなかった幸運を喜ぶとしよう。と言って、アルコール完全拒否症の人がそれを不運と思っているか知る由もない。大学や会社での無理強い地獄は弱い酵素だけでは太刀打ちできないのは同じであるし。

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はいはいはNGで81歩

 あれはいつの頃であったか、取敢えず半世紀近く前ということで手を打とう。それがなんであったかは忘却の彼方、だからなんでもよいということにしておこう。「はい、はい」と答えたら、母様は「二つ返事はいけません。『はい』と一つでいいのです」と申された。

 二つ返事で引き受ける、とは頼まれ事を快諾する意であるからして「はい、はい」は好ましい返答の筈だ。ああ、それなのに、それなのに、ナニユエ?わけが分らぬまま、五十年、訓えを守った。七重の膝を八重に折り、頼まれても知らん顔。違うか。

 これもいつの頃であったか、同じくらいの昔、何ということもなく溜息をついたら「人の前で溜息をつくもんじぁありません。失礼です」と申された。「はい、分りました。もう、溜息はつきません」と誓って 五十年、猫の前でも溜息はついたことがない。人前でしてはならぬことは一人の時もしないように心掛けるべし。でないとどこかで出てしまう。だから、わがサイトを閑古鳥が飛び回っているのを見ても溜息はつかないのである。

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やれやれ、やっと、八十歩

 皆さぁ~ん、八合目まで来ましたゾ。あと、二十歩ですゾ~。(たぶん)

 元祖フリーター時々ニート、永久モラトリアム、独身貴族ならぬ親身帰属、永遠のwould-be writerに他の家族も何も言わなかったのは父の意向に従ったからではない。それぞれが勝手に何も言わず、家に置いておいた。

 母親なら分らなくもないが、芸術芸能志向皆無の姉の寛容という消極的な協力は未だしも服を買ってくれたり保険料を払い込んだりの金銭による積極的(?)協力は謎である。作品を読んで愛読者第一号になったわけでもない。おそらく一行も読んでいない。「あの子はほんとによくやるわねぇ。わたしなら、考えられない」と母が言った。わたしもだ。

 実の姉はともかくその夫となれば、文句の一つ二つ言ってもよさそうなのに気振りもない。別に我慢しているわけではない。当然と思っているらしいのが不思議である。

 しかし、何も言わないのも問題で、子供は十八、遅くとも二十歳までに家を追い出すべきだろう。なんとか職業と呼べるものにつくか、野垂れ死にするか。実際にやっていれば、後の方の公算が大きい。今でもその可能性はある。覚悟の上でやって来たのでどうということはない。「67歳、孤独死」と書かれるのはかなわんが、読者を持たない孤独に比べれば身寄りのないそれは唯それだけのこと。

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なんの反対もなく、七九歩

 中三の時、ふと書いた一行が命取りだった。高校時代はその小説を書くことに明け暮れ、進学校なので一応一つだけ受けて計画通り落ちると二年ばかり、浪人のふりをして、というわけでもなく、書き続けていた。

 全部書くと400字詰め原稿用紙一万五千から二万枚になろうかという、長いというより量の多い小説で根幹をなす最初の部分だけでも三千枚ぐらいになった。そこで仕方なく、別の小説を捏造して某新人賞に応募、予選は通ったが、落選、某デパートの自費出版請負部で〇〇賞落選作品として本の形にした。費用は父に借りた。結局踏み倒した。督促は一切なかった。

 その頃は当然PCもケータイもなかったので起業した人は何処かに事務所を借り、最低一人の人間を電話番として雇わねばならなかった。社長さんが営業に出ている間、いてくれさえすれば何をしていてもいいという願ったり叶ったりの仕事があったのだ。そういう所を狙い撃ちして、働きながら小説を書き続けた。

 38歳の時、一ヶ所で引っ掛かって、推敲している内、自然休筆となり、その後再開されることはなかった。それでも45歳までは又書くつもりでいた。それからの5年間は今考えると鬱だったようであんなに愛した小説に一切未練はなくなった。映画は何を見ても面白くなかった。年を取って、今の映画と合わなくなったのかと思ったりもした。

 50になると突然焼けぼっくいに火状態になり、続きは書かなかったが、名場面集を新たに書いたりした。40代にも某誌のエッセーやら某放送局の漫才台本に応募したがどちらも落選した。家族の誰も何も訊かないし、何も言わなかった。読ませろと要求することもないし、こっそり盗み読むこともなかった。

 本当は絵描きになりたかった父は明らかに自分の血を受け継いだわたしには好きなようにさせてやろうと思ったのだろう。口には出さなかったが、期待もしていただろう。応えられず、些か胸が痛む。我々姉妹には子供がいないので子孫の中に生きることもできず、何も残せなかったことになる。

 

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78歩1/2

 七八歩のtoilet以下の文字が小さくなっているのは勝手に大きさ指定が変わっていたことに気づかなかっただけでアッチャーsign03 なのだが、内緒話っぽくていいか、怪我の功名と思うことにした。

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悩みのないのが悩みで、七八歩

 ♪ソクラテスもプラトンもみぃんな悩んで大きくなったぁ、そうだが、彼らとて1桁年齢から形而学上の悩みを抱えていたわけではあるまい。増して有象無象は。

 小学校からこの方、面白いor/and素晴らしい友人たちに恵まれたとはいえ、悩みを打ち明けられたり、個人的な話を聞いたりはない。こちらからもしないのは言うまでもない。だから、一番つきあいの長い中三以来の、二番目に長い二十代半ばからの友人二人がそのように生きると決めていたようには見えないのに独り身でいるのは何故か全く分らない。単に相手に巡り合わなかっただけなのか、片思いに終わったのか、恋することもなかったのか、見当もつかない。好きな男優や噺家、歌手なら知っている。もし、どちらかが自宅やその周辺で殺されて警察に交友関係なるものを訊かれたとしても「知らないものは知らないっ!」

 1桁から二十代までの悩みのトップは進路即ち生き方か性即ち生き方のどちらかだろう。永遠の文学の主題でもある。それが皆無とあっては売れなくて「あったり前田のクラッカー」も食べたことなし。凡そ性で悩んだことなどない。

toilet  Sexual identity  性同一障害で悩む人もいるし、そこまで行かずとも女は損だ、生まれ直す時は男がいいと言う♀は今でもいる。あたしゃ、100万回生まれ直しても♀がいい。   I enjoy being a girl .(物凄くいい男に生まれてもてまくるのもいいかな、一度くらい)

heart   Sexuality いい男が好きであるsign01

spa    Sexual activity  ♂やセックスが不潔であると七つの海に落ちた目薬一滴ほどにも思ったことはなく、好みの男には自ら突撃、玉砕も厭わじ。大体、♂は化け物級の♀でもなければ、無碍に断らないから、女の方が断然お得!

think   けれども、実人生で好みのストライクゾーン、真ん真ん中の男にはまず出会わないのが悩み。今は会ったとしても「40年若かったら、ほっとかないのに」と言うのが精々 。トホホで ござるな。

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「サンセット77」歩

 ♪77Sunset Strip♪ と言えば、このテーマ曲。そして劇中、エド・バーンズが胸のポケットから櫛を取り出し髪を撫でつける仕草。日本でも評判になったが、本国では歌までできた。♪Kookie,Kookie,lend me your comb♪歌うはアメリカ・ポップス史上最も可愛らしい声の持ち主にして後にワーナー探偵もの第3弾「ハワイアン・アイ」にレギュラー出演することになるコニー・スティーブンス。

 どちらも良く耳にしたが、ドラマ自体は余り見た記憶がない。なぜかと言うとおそらくわが家には未だテレビ受像機がなかった。それがなぜかと言うと買う金がなかった。級友には見栄張るくんして「テレビを買うと勉強しなくなるから買ってもらえない」なぞと大嘘をついた。なくたって大してしなかったのだから。

 毎週見られるようになったのは第2弾の「サーフサイド6」からだ。姉はヴァン・ウイリアムスのファンになった。このシリーズで忘れ難いのは台詞の面白さ。元々が洒落たやりとりなのだろうが、それを余すところなく、いや、その上を行っているに違いない日本語訳の妙にすっかり魅了されてしまった。本を含め、おそらく初めて覚え、以後注目し続けた翻訳家となった人の名は額田やえ子。

 これがきっかけで「目指せ、翻訳家!」なんてことは全くなかったのである。「ハワイアン・アイ」では途中から参加したグラント・ウイリアムスに一目惚れ。端正な二枚目でしたなぁ。

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ナナ・ムスクリと七六歩

 アラブ、トルコの熾烈な2着争いを尻目にギリシャ、5馬身差圧勝!horseの話ではありません。note 

 わが国のギリシャ音楽事始は「日曜はダメよ」であった。アメリカでも大ヒット、アカデミー主題歌賞に輝くもオスカーの受け取り手が一人もいなかったと伝えられる。誰も受賞すると思わなかったそうだ。作曲者はマノス・ハジダキス。続く日本でのヒットは「その男ゾルバ」ミキス・テオドラキス。ギリシャ音楽に魅かれるきっかけとなった曲は「死んでもいい」の中でメリナ・メルクーリがアンソニー・パーキンスに歌って聞かせる“Se potisa rodostamo”

 ハスキーを音速で通り越し悪声の域に突入しているが、一番好きな声だ。この曲の入ったアルバムをみつけた時は!フランス盤なのでこれ1曲を除き、フランス語。後に出た日本盤はすべてギリシャ語。

 この頃のデパートは百貨店の名に恥じず、なんでもあった。プレイガイド、本、文房具、レコード。民族音楽のコーナーはあってもロシア民謡、イタリア民謡が精々がとこ、半ば諦めつつ探索した新宿伊勢丹の棚にマノス・ハジダキス2枚発見。目当てのミキス・テオドラキスは・・・・・ない!代わりにスタブロス・クサルハコスというその名を聞くのも初めての若手の作曲家のものが1枚。そのレコードを何度聞いたことか。どこでも聞けるようにテープにも採った。初めて買ったCDが又それだった。3曲だけ別の曲が入っていた。唯、レコードもCDも録音上の難あり盤。さすが、ギリシャと妙なとこに感心した。

 アグネス・バルツァが生まれ故郷ギリシャの歌を歌ったCDを出したが、その編曲、指揮をしたのがスタブロス・クサルハコスで来日公演でも指揮者を務めると知って泳ぐようにしてチケットを買い、折りあらばサインを貰おうとレコードのジャケットに厚紙を入れて持参、30年前からファンでしたと言うぞと気合を入れて臨んだが、幕が開くとなんか変!それらしき人物が見当たらない。えー?!休憩時間に訊ねると都合で来られなくなった、通知済みだという。家に帰って新しい方のチラシを見ると小さな字で確かに書いてあった。バルツァでなくクサルハコス目的の客はいたとしてもほかに一人か二人か。

 タワーレコードなどではギリシャ音楽だけでかなりの巾がある。どれを買っていいのやら皆目分らない。棚のもの全部!と言ってみたい。ほかのジャンルでもここからここまでとか、このフロアのものすべてとか。いやいや、たとえ買えたとしてもそんなに沢山のCDを聞く時間はないのだ。と、納得させる。幾ら嘆いても金は出て来ないのだから。それにしてもあるだけで嬉しいのだ、レコードやCDは。

 あ、ナナ・ムスクリね、彼女もフランスで活躍するギリシャの歌手である。レコードも持っている。一応好きだが、えり好みのできない時代であった。ギリシャ絡みの音楽ならなんでも。今は選べるので目下一番有名らしいハリス・アレクスゥ?は聞かない。

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お名残り惜しや、でなく七五歩

 卒業式の季節。校舎にも教師にも同級生にも思い入れはなく、式と名のつくものは性に合わないように生まれついたらしく嫌悪の情しか思い出せない。友人とは卒業で縁が切れるわけではない。

 事ある毎に一緒に何処かへ行く友人は持ったことがなく、男の友人が絶えたこともない。都落ちした友人は当然として、都及び周辺の友人ともつきあいの主流は手紙であった。それはメンバーほぼ総入れ替えとなった現在も変わらない。その手段を有する人とは電子メール中心のやりとりに移行したとはいえ、原始メールも健在だ。長年のご愛顧有難うございますと郵政省から切手1万円分戴きたいと常々思っている。

 友人、知人の殆んどが映画好きで関心なしという人は一人もいない。時々、映画を見なかったら友人0?と思ってドキッとする。介護適齢期だったり、仕事が忙しかったり、自身の健康問題、Uターンなど、さまざまな理由で余り映画を見られない友人にはチラシを送る。今はA4厚さ1センチまでなら80円、2センチまでなら160円と〒に比べると格安のクロネコメールというツヨ~イ味方ができた。印刷物送付は専らこちら。クロネコボールペンちょうだい!

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メジャーは用なしで、七四歩

 というわけで、メジャー系の映画は目じゃないと滅多に見なかった。日本映画はATG以外殆んど見ず、ハリウッド映画はハナから馬鹿にしてたまに鼻を引っ掛けてやった。バスター・キートン、ビリー・ワイルダー、ハワード・ホークス、ドン・シーゲル、バート・ケネディ。へぇー、ハリウッドものも面白いやんけ。

 というので、毛嫌いせず、見始めたが、パニック映画花盛りの候、飽きが来て、大作からは静々撤退。が、神は我を見捨て給わなかった。80年凸凹から、リドリー・スコット(英)、デイヴィド・リンチ、ジム・ジャームッシュ、スパイク・リーなど独立気鋭の新人が続々登場、ミニ・シアターが誕生、単館ロードショー全盛期の幕開けである。尤も近年は2,3館ロードショーが中心だ。

 そして期を同じくしてインディーズ日本映画の夜明けが始まった。年と共にわが鑑賞記録の日本映画の本数が増え、2007年は遂に外国映画を逆転、わたしゃには関係ないが興収でも上回ったのでなかったかな。メジャーな作は好きな男優が出ているので致し方なく見ること、たまにあり。

 単館or2,3館ロードショーであっても、話や出演者が気になっても、作りがメジャーっぽい作品は見る気が起きない。「雪に願うこと」「おくりびと」監督がそれぞれ根岸吉太郎、滝田洋二郎。ね?

 ここ10年ぐらい、G7とやらの先進欧米国の映画で食指の動く作は極く僅か、見て面白いと思うものは更に少ない。日本映画の伝道師を自負し始めたが、映画に対し、TVドラマはどうしてああもつまらないのか?ったく!その逆がアメリカ、映画のつまらなさに対し、TVドラマがなかなか。普通にTV放映してくれないシリーズでも気になるものが幾つかあるが、そこまで面倒看きれない。だが、映画もTVドラマも面白いという、にくい奴がいるのだ。かつてアングリー・ヤングメンを生んだ国、イギリスである。「スラムドッグ$ミリオネア」に向って、用意、ドン!

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新しい波と七三歩

 わが青春のヌーヴェル・ヴァーグ&アングリー・ヤングメン+ネオ・レアリズモ。

 早めに逝ったフランソワ・トリュフォーを除けば、皆長生きして活躍中。エリック・ロメールが「我が至上の愛」を最後に引退宣言した。映画監督が明確に表明して廃業するのは珍しい。知る限りではミシェル・ドヴィルに続いて二人目だ。この二人は木々に囲まれた庭の片隅で本を読んだり、手紙を書いたりしてゆっくり時を過ごす姿を想像できるが、実際はそうだとしてもなさそうなのがジャン・リュック・ゴダール。映画は撮らなくなっても、なんらかの活動はしそうではないか。再上映の動きも活発になって来た。

 記録映画であっても、映画は映画でないふりをするのが好きだ。催眠状態に陥らせ、映画であることを忘れさせようとする。唯一の例外がゴダールだ。彼は観客の横っ面を引っぱたき、覚醒させようとする。「あなたはほかならぬ映画を見ているのだ」

 故に彼の映画は常に新しく、並でない。

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正式名称はナニ?、で七二歩

 毎日のように目にし、お世話にもなっているが、なんというのか分らない。別に知らなくても支障はない。テキトーに呼んでいたり、手振りや「あれ、あれ」で通じる場合が殆んどだが、改めて正式な名称は何?と問われたら、はたと考え込んでしまう日用品、事務用品は存外に多い。

 銀座伊東屋の看板代わり、巨大クリップはゼムクリップという。その手のものは100円ショップで調達するので店内にどんなものがあるのか、見たことがないと気づいた。今度見てみよう。間違って指も一緒に挟むと「イッテエー!」になるのが目玉クリップ。その所業に比べ、愛嬌のある名だ。いずれも一つの動作で書類綴じ完了!

 三つ目が問題のダブルクリップ。と言われて咄嗟に思い浮かべることができなくても厚めの書類を綴じる時に使う二度手間のやつと言えば「あー」であろう。役所に提出する書類を「ダブルクリップで留めて下さい」と言われ、ゼムクリップを二つ付けて持って行った人がいた。ほかならぬわが姉である。それも入社したての新米の頃ではない。古古米ぐらいになった時の話だ。おそらくそれまでもダブルクリップで留めて提出していたのだろうが、名称を知らず、わざわざ指定されて「???」と思案した結果の珍プレーと思われる。

 家族皆で大笑いしたが、今でも思い出すと吹き出してしまうのである。clipclip

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ないない尽くしで、七一歩

 持ってない、できない、したことがない。この三つで勝負したら、そんじょそこらの人にはゼッタイ負けない自信がある。(と、胸張るんじゃない!)

 ないものは、電気炊飯器、湯沸しポット、貯金。化粧品。(あるのは化粧水、黛各1本)運転免許証。パスポート。(レンタルビデオ屋、映画館などで健康保険証を取り出すのは些か体裁がわりィ)

 したがって、車の運転ができない。オートバイも乗れない。自慢じゃないが、自転車も乗れない。1桁年齢から乗馬、十代から飛行機操縦に憧れ続けているが、果たせず。のみならず、どちらにも乗ったことすらない。死ぬまでに一度はと希っている。

 スキー、水泳まるでダメ。楽器も弾けない。小学校の時、ピアノちょっぴり、リコーダー少々の経験はあるが、今、弾け、吹けと言われても、からきしです。オーボエと三味線は習いたかった。大吠えだけは得意。ピアノ、バレエ教室には高齢初心者部門があるようだが、声楽はなさそうだ。もともと、声楽教室なるものは見かけたことがない。東京芸大に入るっきゃない?

 そんじょそこら、本所、石原の通りっ端どころか、渋谷の映画館に入って行く人たちに挑んでもまずは勝てる物件が一つだけある。優に1万は越え、Wりを含めれば、総在庫数は数万、ひょっとすると十万突破?と思われるもの、映画のチラシである。

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記憶にはナゾ多しで、七十歩

 記憶にある限りの子供の時から今の今まで、わが脳細胞は実人生に対するより遥かに多くの精力を虚の世界の為に使って来た。“元祖フリーター、時々ニート”仕事も終われば、ハイ、それまでヨ!

 ♪サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ♪ ある時、この歌の題がなんだったか分らなくなっているのに気づき、友人にFAXで訊ねた。すると“どんと節”との答えが返って来た。「ああ、そうそう」となる筈がならない。その題にとんと覚えがない!歌そのものは耳タコに聞いていたのに。こんなことがあろうか?!

 別の耳タコ曲が久々にラジオから流れて来た時も同じことが起った。“Na Na Hey Hey Kiss Him Goodbye”題は分っていたが、演奏グループ名のSTEAMにどうにも覚えがない。まさに湯気の如くわが記憶装置から蒸発していた。ポピュラー音楽シーンでは毎度お馴染みの「途轍もない大ヒットを飛ばした一発屋」ではあるが、それにしても!

 記憶にロックが掛かってしまったのが、美空ひばりの歌で一番好きな「明玉夕玉」ある時、最終節の♪明玉夕玉よ♪以外全く思い出せなくなった。CDはBOXセット以外にみつからず、諦めていたら、1枚売りをみつけ、アタマのnoteを聞いた途端、解除。もう、いつでも取り出せます。

 かと、思えば、特に好きというわけでもなく、その日の朝、或るいは前の晩に耳にしたのでもないのに一日中その曲が頭の中で鳴っていたりする。あれは一体なんなんでしょう?極地で遭難しかかった人が薄れていく意識の中で歌が聞こえて来た、よく聞いた曲でも好きな曲でもなかった、美空ひばりの「川の流れのように」だったと語っていた。それも一体なんなんだぁ?

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69年生まれと六十九歩

 男っぷりにであれ、役者としてであれ、好きになった男優は、きっちり六十九人、ではなく、ざっと五十人、いや、三十人?やはり、もっとか。

 マダム・スザーツカではないが、天才という言葉は嫌いだ。特に映画人については使いたくない。セルゲイ・エイゼンシュテインになら、ま、いいかとも思うが。それでも彼についてはついつい天才と言いたい誘惑に駆られてしまう。1969年生まれの男優である。

 長年、日本には69な男優がいないと嘆き続けていたが、彼を見た時は遂に日本にもこういう男優が現れたか、長生きはするものだと思った。二度と炎を上げることはあるまいと油断していた焼けぼっくいに火がついて、妄界で映画を撮ったり、写真集を出したり、忙しくなってしまった。いやぁ、困った。その写真集というのが三十五年位前に大樹小説の中で既に出版済み、実在の肉体を使って“撮る”のは初。せめてこれだけでも見せてあげたい。熱烈なファンだけにでも。脳内の映像をプリントアウトできないものかと切に願う。「プレオナスム Part Ⅰ」「プレオナスム Part Ⅱ」とある大スターの有名な写真のリメイクは言葉でも説明できるが、脳外不出。ほかの肉体で先を越されてはたまらない。タイトル公表だけでもヤバイ、ヤバイ。

 と、一人ではしゃいでいるが、車に例えれば、既に何十万キロも走ってエンジンは動かないわ、ガソリンタンクは空っぽだわのポンコツ車、たまたま坂の上に停まっていたら、誰かが押したので動き出しただけで走っているわけではない。もう一番下まで転がり落ちた気がしている。地べたに寝転がって、今日も空は青いぞ。

 今や日本映画界は才能溢れる男優で満ち満ちている。40代~20代限定ですが。只今、10代、1桁からもきっと凄いのが現れる。それを考えると長生きしたいぜ。だが、これはいつまで行ってもきりがない。頭がはっきりしている限り、たとえ200歳になっても「近日公開」の映画を見たいと思うだろう。

 彼とは誰かって?内緒です。ヒントは役者として惚れ込んでいるにも拘らず、写真集を出したくなる男優。と言えば、あの人しかいないでしょう。ジュル。失礼、つい、涎が。

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只ほど高いものはない、で六八歩

 わが母はいろいろな古えの訓をしばしば口にしたが、その一つが「只ほど高いものはない」

 只ではないが、物が余り豊かでなかった頃、近所の人などが「安く買えますよ」と言ってくれても決して頼まなかった。「親ならともかく、他人様じゃ、お礼をしなけりゃならない。反って高くつく。自分で買えば、すいませんもハチの頭もない」

 このハチがよく分らない。頭と来れば蜂?古今亭志ん生が噺の中で「お願いも手水鉢もない」とないと言っていたところを見ると鉢の可能性もある。どっちにしてもなんで急にハチが出て来るのか、江戸っ子の喋りには突飛な形容が多いのであった。

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胸元談義で六七歩

 ブラジャーなるものを自分で買ったのは、数年前100円ショップで大枚200円はたいた2枚だけと告白済みと思ったが、16JOYAの頃から60BABAの現在まで新品であるとお古であるとを問わず、それらは姉方面からやって来るのであった。

 一度、前で止める式のブラが回って来た。「止め金が当たって痛いからあげる」ガハハハ。姉がシャーロット・ランプリング・クラスならわたしはドミニク・サンダ辺。少しは浮く!「マイド!」

 ある時、例の小中高一貫同窓生が「あなた、体に自信ある?」なぞと訊く。そして返事を待たずにこう言った。「あの人はムチッ、ムラムラだからなァ」

 のあの人とは若松孝二なり。今でもムチッには程遠いが当時はガリッ、ガクッ。どうせ、暇だから、行こ、行こ。

 とあるマンションの一室。すでに十数人の人が詰めていて、こっちは隅っこに座っていた。監督が何を話していたか全く覚えていない。御前に呼び出されもしなかった。

 わたしの胸があと3センチ高かったら、日本映画の歴史は変わっていたかもしれない。今頃、脱がせのnotenoteと呼ばれて、貌もボディも美しい若い男たちを脱がせまくっていたに違いないのだ。しぶるのがいたら、ン十年前のわが勇姿を見せて「だから、キミも」と叱咤激励できようというものだ。ウ~ム、残念!

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666でなく、六六歩

 昨年、¥666のレシートを見事にゲットー!¥777は二度ゲットー、それも同じ日に、10分と間を置かず!それがどうした?どうしもしない。

 生まれてこの方、占いだ、ジンクスだ、おみくじだ、風水だ、厄年だ、恵方巻きだ、の類いは信じたことがない。666が不吉とも思わないし、777がラッキーとも思わない。そもそも666は「13日の金曜日」同様、キリスト教関連であっしには関わりのねぇことでござんす、である。大安だ、仏滅だ、の暦とやらも江戸後期に始まったと聞く。それより古いキリスト教とてたかだか2000年足らず、ヨーロッパ全土に信者を持つようになったのはずっと後のことでそれ以前の人類の歴史の方が遥かに長い。

 ある時、最寄駅に向っていると若い男が話しかけて来た。「すみません。〇〇を勉強している者ですが、あなたの額には△△が出ています。今、あなたはupwardrightdownwardrightの分かれ目にいます。それにしてもこんなにはっきり出ているのは珍しい。ご先祖があなたを守ってますよ」

 別に何か勧誘する様子もなく、それだけだったが、確かにdownwardrightになるだろうと覚悟した時期だった。ご先祖さま信仰は毛ほども持ち合わせず、三代前、二代?の祖先でさえ生きて会ったのは母方の祖母一人、葬式には出たが、墓参りに行ったことは一度もないバチ当り、それでも守るのがご先祖や神の務めとは思うが。

 〇〇と△△はなんと言ったのか分らないからで、伏字というわけではない。その手のものは近づいたことがないから、見当もつかないのである。

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ムツの卵と六五歩

 姉の勤務先は御茶ノ水にあった。昼ともなると淡路町、小川町、神保町など神田一帯に出没、評判の定食屋、名立たる蕎麦屋、洋食屋を経巡り、老舗の和菓子屋、知る人ぞ知るケーキ屋などで頻々と土産を買って来た。この界隈なら「アド街ック天国」に出られます。

 中でも忘れ難いのはすっかり懇意になった魚屋で手に入れる魚介類、作で買う鮪、フライにして2本食べるとそれだけで満腹になる程の海老、うまいのはうまい生雲丹、牡蠣、初めて食べたムツの卵、等々。「ムツが絹なら、たらこは木綿よ」とは主の弁。

 「今日はお金がないから、素通りしようとしたらみつかっちゃって、ちょっと、ちょっと、鮪のいいの、入ったからさ、見るだけでも」と呼び込まれることもあったらしい。五人家族だから結構いいお得意だったのかもしれない。主が亡くなると継ぐ人もなく、魚屋は廃業、奥さんが定食屋を始めたという。うまい魚とも縁が切れた。

 ほかにも今で言うデパ地下でなんやかや買って来るのである時母がポツリと言った。「あの子、一体幾ら貰っているのかしら?」家族経営のような小さな会社だったのでひょっとして会社の金をドガチャカドガチャカ、或いは退社後にあやしげなサイドビジネスを展開?と親らしい心配をしたものと見える。

 うちの姉に限って、絶対にないっsign03sign03sign03sign03sign03

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母方は無趣味血統で、六四歩

 わが父はその芸術志向の血を母方から受け継いだ。既に書いたように母の長兄の息子が詩人、時々映画評論家で、自身の姉の娘は当初の目標は達成せざるも一応音楽で身を立てた。父は早い内に絵描きになる志を捨て生涯を勤め人として過ごしたが、余暇は美術展巡りと書、墨絵に費やした。同じ程好きなのは本を読むこと。娘のわたしは美術、建築など動かぬものには余り関心が向かないが、本好きはそのまま受け継いだ。芸術、芸能に魅かれる資質がその血筋に脈々と流れ、どの領域により傾くかが各人で異なるだけだ。見かけは母そっくりと言われたが、手先の不器用さを除けば、中身は父方のみで出来上がっているようなものだ。

 対して、見かけも性格も母の姉によく似たわが姉は母方の血をそっくり受け継いだ。芸術、芸能への志向どころか嗜好も皆無。母も同様、その姉妹も同様、姉の息子(母の甥)二人も長男の方が関心なくはない程度でそう強くはなさそうだ。わが母とその姉は専業主婦だが家事が好きなわけでなくむしろ逆。編み物だの刺繍だのの手仕事趣味もなし。母の妹は洋裁を仕事にしていたが、徹夜ができなくなって外で働き出すと趣味で作ることもなかったようだ。わが姉はやれば手仕事も料理もうまいのだが、好きではないらしい。テレビすら自分からは見ない。母もそう見る方ではなかった。

 主婦という職業は年中無休24時間営業定年なしとはいえ、趣味が全くなくて生きていけるのは凄い。三食昼寝つき?だとしたら、もっと必要だろう。確かにない方が心は安らかだ。時間と金は限られている。若い頃から自分が三人欲しいと思っていたわたしの目下の悩みは本を読む時間がないことだ。

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無味乾燥な授業と六三歩

 授業はさっぱり面白くなくてろくに聞きもせず、家でも勉強はしなかった。暇さえあれば、小説を書いていた。一年の時、テストを白紙で出したら、校長の呼び出しを受けた。その後も灰白紙程度の解答率だったが、再喚問はなし。こりゃどもならんと匙を投げたようだ。栄えある学び舎始まって以来の最低の成績保持者であり、あり続けているだろう。

 本来は落第、留年にすべきところ「めんどくさい」のでどんどん上げて出してしまった、と。一人ぐらいどうってことない。黙ってようなぁ。卒業後、何年かしてそれでは余りに申し訳ないと一番さぼった学科、数学と物理を自分で勉強し直した。在学時にちょっとはやったから「直した」は嘘偽りではありません!自分で勉強するとどうしてこうも面白いのか?逆に言うと学校の授業はなぜああもつまらないのか?

 その答えはファラデーの「ロウソクの科学」にあった。「これから皆さんにロウソクのお話をいたそうと思います。この題目はもうだいぶ前に選んだものですから、勝手にこの演題に決めていいのなら私は毎年々々喜んでロウソクのお話をするかもしれません」(岩波文庫/矢島祐利訳より)この本が何度読んでも面白いのはファラデー自身が楽しんでいるからだ。

 授業が面白くないのは教師自身が面白いと思っていないから。気が抜けてしまいましたか?久々に「ロウソクの科学」を読もう。book

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唯一無二の人物と六二歩

 高校は第n学区きっての進学校、中にはあれでよく入れたと実に不思議な方も約一名いらしたが、大体はいわゆる頭のいい生徒たちだった。と、後になって気がついた。それが当たり前だとなんとも思わない。小中高と同じ学校だったが、一度も同じクラスにならず、学級委員会と言ったか、そういう所で顔は合わせていたものの、特に言葉を交わしたことのなかった男子と高校でクラブが同じになり、友達づきあいをするようになった。某国立大学→わが国で一番名の通った広告代理店→テレビのプロデューサーの作った新会社にいた頃と思ったがラジオの30分番組を持った。「聞いてよ」と言われてスイッチ・オン、「東京弁だ!」と大発見したような気になったことがある。実人生では、少なくとも若い頃は周りは殆んど東京弁だから意識することがない。ラジオとなるとその出現率が 1/100位に急降下するので目立って来るというのか耳立って来るのだった。

 本題に入る。例外的に一人、在学中どころではない、のっけから「この人は切れる!」と思った人物がいた。たまたま、席が隣りだった。三年間お隣り人で帰り道も途中まで一緒だった。おまけにクラブも一緒。話をする機会を多く持つことができた。単に頭がいいというのではない。懐が深い。某私立大学法科→司法試験現役合格→某弁護士事務所→独立。若い頃はマスコミに露出することも多く、その先の経歴をわたしはこう予測した。時々TV出演しながら弁護士活動→本を出版(40代)→政界へ(50代)→内閣総理大臣。にっぽんの夜明けは近い!fuji  sun cherryblossom notes spa bottle

 しかし、じきに弁護士活動に専念。いつまでたっても本を出す様子はなく、まして政界へ打って出る気配はケの字のチョン程もなし。残念。ヒラリー・クリントン大統領も実現しなかったが、したとして二人の女子日米首脳会談は壮観だったろう。日中だと筆が登場するようだが、この頭脳抜群、度胸満点の士は弁護士だから口八丁は当然として手も八丁、達筆の人でもあった。

 三年間お隣り人と言ったようにクラス替え席替えなし。お蔭で後ろの方には最後まで名前と顔の一致しない男子生徒が二、三人いた。何故、クラス替えがないのかに話が及んだ時、A嬢(そう呼んでおく)は「めんどくさいんじゃないの?」と言った。確かに各人が勝手に勉強し、入学時はほぼ全員があの大学を目指す学校ではわざわざクラス替えをする必要はない。昨年、たまたま旧制中学時代に学んだ人の文を目にしたので「なに、なに」と斜めでなしに読んで行くと五年間原則としてクラス替えなしとあった。その理由には触れていなかったが、旧制時代からの伝統であったとは。そもそもの始まりは、やはりめんどくさかったのだろう。ほかに思い浮かばないから!

 毎年四月になるとクラス替えがあったらなぁとしみじみ思う人物が一人だけいた。わが担任である。

 

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Muy bonita の級友と六一歩

 Muyは言い過ぎかもしれないが、中二の時に一番親しかった級友はなかなかbonita、且つ造りがその姓同様どこにでもある種類ではないので鮮明に覚えている。半世紀近い歳月が全力を振り絞って変容を試みたとしてもその面影を見出すのは容易であろう。

 宝塚歌劇、ジジ・ジャンメールのファンだった。その後も変わりなく愛し続けたかどうかは分らない。二度一緒に映画を見た。卒業後はつきあいが途絶えたが、何年たっても記憶から去らない人だ。と言って、今頃どうしているだろうと思い巡らしたり、できれば会いたいと望むわけではない。思い出すだけである。

 

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六十路を迎えて猶、で六十歩目

 一番つきあいの古い友人は中三の時の級友である。きっかけはたまたま席が近かった。その後も続いたのはたまたま友人宅がわが高校の真ん前にあった。私が書いた作品と呼べるものはすべて読んでくれた唯一の読者である。

 本人はたまたま私が魅かれている俳人の弟子が宗匠の句会に属して苦吟だか句吟に励んでいるのだが、幾らせっついても作品を披露しようとしない。これは大いにあやしい。その才能に私が嫉妬して「おのれ!」と刃傷沙汰に及ぶのを恐れてのことに違いない。

 実に楽しい手紙をよこす。母が元気だった頃はしばしば傑作文(ふみ)を読ませたものだ。「ほんとに面白いわねぇ」と笑っていた。FAX電話になってからは急ぎの用件はすべてFAX。ある時、一度で話が通じず、三度目にやっと互いに諒解となったので「電話した方が早かったか」と呟いたら、側にいた姉が「あんたたち、面白いわねぇ」と言った。

 電子メールは便箋、封筒、切手いらず、何よりポストまで行かずにすむのがGG,BABA向きで今後は年寄りこそメールの時代になる。唯一の欠点は急ぎの用件には向かないこと。毎日、マメにチェックする人ばかりとは限らない。ある時その日の内に読んでほしかったので「メールを送ったとFAXする“”」とFAXしたら、その場を離れる間も与えずに返信が出て来たので一体なんと書いてあるのかeyeで見ると「どれどれ!」とあった。

 ね、楽しい人でしょ?二つのたまたまに感謝。

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極悪人め!で五九歩

 わが小学生時代の六年間は東映の勃興期、隆盛期、衰退期とぴったり一致する。「笛吹童子」で東千代之介に、続いて「百面童子」で伏見扇太郎に一目惚れ、この両美剣士主演作を中心に東映のチャンバラ映画を見まくった。

 勧善懲悪の娯楽時代劇に君臨するのは悪役の皆さん、バテレン妖術使いの吉田義夫、悪代官進藤英太郎、悪家老山形勲が東映城の三傑。稀にいい役で出て来てもどこかで裏切るのではないかとドキドキしてしまう。それくらい悪悪としていたり憎憎し気だったりの方々であった。山形勲や加賀邦夫は端正な顔立ちであっても悪役をやっていてなんの疑問も感じなかったが、一人だけいい男なのに何故と不思議でならなかったのが三条雅也である。いい男はいい役をやるものなのだ!違うか?子供には分らない大人の世界?

 台詞のある役では東映の最多出演記録保持者ではないかとにらんでいる楠本健二も「笛吹童子」では二枚目然としていた。その後は悪役専門、密かに暗殺隊長と呼んでいる。東映がやくざ映画に転じてからも似たような役どころで真面目に精勤していたから、名前は知らなくても顔は知っている人も多いだろう。

 ワイズ出版が東映本を次々出してくれて欣喜雀躍、品川隆二まで登場とは!東映に移籍して来て一目惚れ。こんないい男の石松は初めて見た、のであった。

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言葉は軽業師で、五十八歩

     taurus あけましておめでとうございます wine

 と、思っていなくても、言葉では何とでも言える。あることないこと、ないことないこと、ありえないことも。日頃は意味を持つと考えられているが、消してしまうことも朝飯前。「Senseにnon!」を明確に意図して書かれたルイス・キャロルの書物を引くまでもない。東京人の好きな言葉遊び、たとえば「畏れ入谷の鬼子母神」でも言葉は意味を失う。Curiouser and curiouser!掟破りも得意技。

 言葉の最大の強みは物でないことだ。何かに書かれたものは時を経るにつれ解読しにくくなるとしてもされる限りそれとして存在し続ける。美術品や映像作品は時による劣化が作品そのものの価値に反映する。墨で流麗に書かれた巻物で読むのと今の印刷された本で読むのと読み手の気分が作品評価に全く影響を与えないとは言わないが、文章そのものは同じであり、文学であれば芸術性に変わりはない。

 言葉は元素、即ち、金。沈黙はダイヤ。

diamond ダイヤモンドの正体は炭素だが、燃えないと聞いた。どなたかダイヤの指輪でもネックレスでも暖炉の火に投じて証明してみせてくれませんか?

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いと懐かしきは、で五十七歩

 野球のオフシーズンの金曜夜、国営放送のラジオが「いとしのオールディーズ」なる番組を放送している。半分ぐらいは単に古い、少なくとも十年以上たっているというだけでオールディーズではない。50年代、60年代の(アメリカの)ポピュラーソング及びロックンロール、これがその定義だからだ。たまにそのストライクゾーンにズバズバ投げ込んで来る人もいる。あ、毎回ゲストが選曲します。合間に来し方を語る、と。

 耳たこの曲を聞いてもそう懐かしいとは思わない。「ダイアナ」「恋の片道切符」「悲しき街角」「監獄ロック」等々。不思議と懐かしさを誘われるのはそれらより聞く折の少なかったエヴァリー・ブラザースやバディ・ホリーの曲なのだ。これまで聞いた限りでは彼らの曲を選んだ人は一人もいない。

 日本のラジオ局でも掛けていたと思うが、おそらく中学になって聞き始めた駐留軍放送で盛んに流していたのだと思う。79年までは一日として聞かぬ日はなかったから、50~70年代にアメリカで流行った曲で知らないものは一つもないと言ってもいい。

 80年代になるとディスコ・ブーム、次第に聞かぬ日が増えてゆき、90年代となるとどうだったかも覚えていない。2000年代、たま~に聞くと何故かカントリーばかり、いつダイアルを合わせてもそうなのだから変である。ハードロックが好きでカントリーが流れて来ると怒り狂う「ヒドゥン」の悪玉エイリアンのような気持ちになる。「レトロ・カフェ」なる60、70年代の曲専門の番組に当たれば幸い。

 カントリーがすべてダメというわけでもない。事実ジョニー・キャッシュ、ジョン・アンダソンのレコードやCDを持ってるし、ポップスからカントリーに転じたエクサイルなどは大好きである。わが国にも同じ名のグループがあるらしい。以前、新聞のTV欄にドリフターズの名を見て盛大に?だったことがある。何故、ドリフターズが今頃日本のテレビに?

 わたしにとってドリフターズはベン・E・キングのいた、あのグループなのだ。今でも猶。彼らも、また、いと懐かし。

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雷ゴロゴロで五六歩

 わが父は雷親父であった。明治生まれのすぐ雷を落とす頑固親父、ではなく、雷大好き親父なのだった。気分爽快になると言って雷大嫌い母の心胆を寒からしめた。

 娘のわたしは夕立大好き人である。青天に暗雲が立ち込め、夜の如し、稲妻が縦横無尽に空を切り裂き、真っ白な雨が地を叩く。こうした理想の夕立には滅多に出会えない。夕立に限らず大雨を見るのが好きなので一度尾鷲の豪雨を眺めてみたいものだと思い続けている。

 オペラ同様、雷好きの遺伝子もあるのかもしれない。従姉が好きだったかどうかは不明。少なくとも嫌いではなかっただろう。

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少し急ごうで五十五歩

 小、中と腰の辺りまで伸ばした髪を母が毎日三つ編みにしてくれた。いや、編んでもらったのは小学生までだったと思う。長い髪は母の好みだったのだろう。一度か二度おかっぱにしたことはあった。切る時は床屋であった。床屋は男の人の行く所だと思っていたので美容院へ行きたかった。

 長じて美容院へ行ったのは記憶にある限り二度だけである。逆に床屋を愛用した。わけではない。一番手間いらず、金いらずの髪型にしているからだ。唯、伸ばしっぱなし。伸びすぎたら自分で切る。気紛れにショートカットにしてみようかという気になって二度専門家を訪ねたが、その後はそれも自分でやった。冬場乾かすのと夏場上げるのが面倒だが、なんと言っても一番安上がりでまことビンボー人向きである。

 しかし、ドライヤーなるものが現れたのはケッコー大人になってからと記憶する。子供の頃、一体どうやって乾かしていたのだろう?全く思い出せない。冬は石油ストーブ?もっと前は?江戸時代の人はどうしていたのだろう?毎日洗わなかったとしても、火鉢では日が暮れてしまうどころか夜が明けてしまう。

 他人の髪も長いのが好きで、今の若い女優さんたちがすっと長くしているのはよい眺めだ。男の子の髪も長いのが好きだったから、ビートルズが登場した時はやったァであった。あの頃は長髪と言ったが、今はロンゲと言うらしい。女の長い髪はロングヘア、または単に長い髪である。絶対的な長さが違うとはいえ、時代、性によって表す言葉を分けるのがなんとも趣き深いではないか。

 馬の尾も長いのがいい。大体、尾の貧相なのに走る馬はいない。先週の朝日杯ではツルマルジャパンの並の馬の倍はあろうかと思える程ふさふさとした尾に目を奪われた。16頭中の14着だったから、尾が立派なら走るというわけではない。いや、2歳戦とはいえGⅠなのだから出走するだけでも相当走る馬と言えます。めでたく競走馬になり新馬戦に出て来るだけでも大したものなのです。一つでも勝てば大いばりです。ツルマルくんは二つ勝ってますから、大いばり。

 今は見かけないが、ポニーテイルという髪型も「出て来た」ものだった。1950年代にアメリカからやって来た。あれはゴム紐がなければできない。誰がどうして思いついたのか、調べる方法が思いつかない。ネットでsearch

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歩みは亀の如しで五十四歩

 子供の頃、家にいたのは猫と金魚。そして時々chick。縁日で買って来ては殺していた。親鳥代わりに保温しなければならないのにそのままにしておいたせいだろう。すぐに死んでしまう。母がもう買わないと言うのをせがんでせがんで買って貰った最後のchickはわたしの後をついて回り、可愛いことこの上なかった。その子が儚い命を終えると流石に諦めた。

 金魚掬いもよくやったが、飼っていたのはその釣果というより、その頃の夏の風物詩金魚売りから買っていたように思う。最後の金魚は三匹一緒に買ったが、二匹がもう一匹を絶えず追い回すので別々に飼うことにした。後に一緒にしても今度は大丈夫と思ったのか、同じ容器に入れたら、留守の間に弾き飛ばされて床の上で絶命していた。金魚の世界にもイジメがあるのか、三匹住むには住宅が狭過ぎたのか。

 突然、思い出したが、亀もいた。昔は町中でもよく売っていたような気がする。庭でのそのそしたり、屋内のそこら辺で好きにしていたように思うのだが、どうなったのか記憶にない。多分、行方をくらましたのだろうと思う。毛のもの、羽のものに比べると甲のものは守りが固く情が移りにくい。で、あっさり忘却の彼方。尤も新聞の投稿欄に高齢ゆえ自分が死んだら、面倒を看る人がいなくて不憫と長年飼っていた二匹の亀を近くの池に放して帰ろうとしたら二匹が猛然と後を追って来たとあったから、亀も去らないもの、なつくものらしい。

 あの頃は文鳥、伝書鳩を飼うのが流行っていた。ローラー・カナリヤは姿も歌声も華やいでいてピアノのあるようなお宅でないと似合わない高級な鳥であった。今はペットの投稿写真を見てもインコの類が圧倒的でカナリヤは滅多に見ない。おそらく50年ぐらい前までは、江戸期からの伝統を引きずっていて鳥は声を楽しむ為の「籠の鳥」でしかなかったのが、次第に毛のもの同様ペットとして密につきあいたいと望む向きが強くなったせいだろう。とはいえ、密着はほどほどに。

 

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それは誤算で五三歩

 今時の中学では流行らないと思うのだが、多分中一の時、世界地図を広げ、知られざる地名を順番に指定して探しっこする遊びに皆が夢中になった。未地との遭遇と呼んでいた。というのはウソである。競ってできるだけ小さく書いてある場所を選ぶので、ある時裏をかいて字の間隔の広い地域名を言ってみたら狙い違わず誰もみつけられず、ニンマリであった。

 しかし、こうした裏技は一回しか通用しない。というより、皆が真似し出したのが誤算であった。珍名探しは今でも盛んに行われていそうだが、当時の一番人気はスケベニンゲンでエロマンガは登場していなかった。

 ある時、黒板に謎の英文が書かれていた。To Be To Be Ten Made To Be.今は廃れたであろう。小学校の時に流行ったクイズにはこんなのもあった。「ソプラノ歌手が歌い終わった途端に死んだ。何故か?」

 

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殊に良く覚えているのは、で五十二歩

 小学校時代の一番の思い出は彫り物だらけの机と椅子が一斉にガタガタと鳴る瞬間だ。その1/3秒前には「姿勢を正しく!」という教師の鋭い一喝が響いていた。

 そのせいではないだろうが、街を歩いていても電車に乗っていてもわが同胞たちの姿勢の悪さが目について仕方がない。若い女の脚は長くなっても曲がっている!膝から下が∧になっているのを目撃した時はまさにeyesign03であった。もし、そのような曲がり脚だったら、ロングスカートにすればよいものをと老婆心は思う。が、そのお嬢さんはまるでそのことに気づいてないかのように細身のパンツで堂々たるものであった。

 ラジオで石川県のどこかの寺の住職なる人が「ヒューストン空港で出発待ちをしていた時、中国人や韓国人、アジア人がいっぱいいましたが、日本人はすぐ分る。何故か、分りますか?」とインタヴュアのアナウンサーに問いかけた。代わりにBABAが即答した。「姿勢が悪くて歩き方がひどい」

 二番目はやはりまずい給食か。中でも息を止めてぇ、そのままぁ、一気飲みした脱脂粉乳。その後「あれは進駐軍の豚の餌だってさ」と聞いて屈辱感に打ちのめされた。未だに立ち直っていない。

 大山が読めなかった若い方々(アナウンサーと気象予報士だったか)がいたが、今の小学校では地理を教えていないのか?狸穴ならともかく、国立公園ですゾ。

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急いで五十一歩

 開巻一番、これは凄いsign01これは凄いsign03と見ている間中、言い続けた(声には出さず、当然ながら)「セーラー服と機関銃」慌てて相米慎二の第一作「翔んだカップル」を拾いに走った。高田馬場の三番館。立ち見。

 薬師丸ひろ子の歌う「夢の途中」は今聞いてもいい。その詞を書いたのが中学の同級生と分った時は驚いた。咄嗟に浮かんだのが色が黒めで丸顔でかなり可愛いおさげの少女であった。その後、タダ冊子かなにかのインタヴュー記事で見た人にその面影は全くない。別の人と近藤さんしたか、それとも年月の力を借りれば、人間はここまで変われるのだ、の典型なのか、しかと分りません。鹿戸師、ジャパンカップ優勝おめでとうございます。horse府中は一日sunfujiも見えました。アルゼンチン共和国杯はバッチリでしたが、スクリーンヒーローならブルース・リーの①⑯しか持ってませんでした。1600万下→GⅡ→GⅠsign03有馬はアタマから狙うのでお馬さんに良く言っといて下さい。

 驚いたのはそれだけではない。薬師丸糞する、じゃない、扮する、因みに競馬界では馬の糞をボロと呼びます、男馬がチン列するのを馬っ気を出す、牝馬の発情をフケ、調教師をテキ、こういうことは学校じゃ教えてくんない、これは志ん生の名文句、息子さんの通った中学での話なんです、これは、その、なんですな、なんの話だっけ?そう、ヒロインの名、ほんとはヘロインと発音するのだが、いろいろ事情があったんでしょ、その名前が星泉。これ又同級生の名そのまんま。但し男子生徒だった。

 行く末は歌謡曲の作曲家になりたいと言っていた。なれたのだろうか?なってくれていたら、いいな。現代人にとって最高の幸せとは「好きなことで飯が喰える」こと、なのだから。      

                オイラはbreadでもいいぜ。

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どう思おうとご自由にで五十歩目

 小学5,6年時、化学部男の子クラブのリーダーとはラブラブで全校公認のカップルであった。だからと言って二人きりで会うようなこともなく、手を握ったこともない。特に冷やかされることもなく、問題にされることもなく(なんせ、二人とも全校きっての優等生でしたからなぁ、クワッハッハ!)たとえ、されてもなんということもなかった。ガキの頃から人目は一向気にしない性だった。

 中学では一度も同じクラスにならなかった。後で考えると幸いだった。一年ぐらいまではheartな気持ちが残っていたが、それ以降は次第に消えて自然解消のような形でつきあいも終わった。他のクラスの野球部の男子にちょいホになったり、同級の音楽好き男子にheartされたような気も。

 あれはいつのことであったか、男の子クラブの一人から「(彼は)大人になったら、君と結婚するつもりだったんだよ」と聞かされた。エエ?!そんな先のことをよく考えられると驚いた。確かに小学校時代、「僕の知り合いに小学校の同級生と結婚した人がいるんだよ」と言われた覚えはあった。想う人に想われていると分って(既に分っていたが)嬉しかったが、結婚など夢にも考えなかった。

 高校も同じ筈だったが、何も覚えていない。どこの大学に行ったのだったか、埼玉大?あれもいつの頃だったか、相当大人になってから(二十代)一度手紙が来た。医師になったと告げ「・・・僕の医者になりたいとの気持ちを一番良く知っているのがあなただから、知らせます」という内容だったが、全く記憶になかったのである。もの忘れがいいのか、他人の話は聞いていないのか。

 同姓同名がそう多いとも思えぬのでネットで調べてみるとその名の医師にヒットしたが、本人かどうか確証は得られなかった。わたしの同姓同名人は数名いるが、どれもわたしではありません。と、断る必要もないのがトホホですな。

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良く出来る子と四九歩

 小中時代は授業は真面目に受け、わが母の教え通りに復習だけをした。30~60分。最大90分。試験勉強なるものは一度もしたことがない。中二の時、何と言ったか、家で何時間勉強し、テレビを見るかなどを表にして出すように言われ、復習時間をサバ読みしないとまずいと倍にして出したら、担任にこんな少ない時間でこんないい成績(その時のテストで全校一になったらしい)を取れるわけがないと少なくサバ読みしたと疑われ、わたしゃ、おこったね。これでも、多く書いたのだ、馬鹿馬鹿しいから、二度とこんなもの、出さない!と言ってやった。

 その後、どう展開したか、うろ覚えだが、母の証言もあってわたしがウソをついていないと(少し方向へは!)信じてもらえたようだ。5,6年を過ごした小学校でもクラス上位の生徒たちは家庭教師につくか、塾に通っていたと聞いてびっくりした。十で神童、十五で才子、末は博士か大臣か。母は医者か弁護士と望んでいたらしく思える。うちの親たちはそうしたことを一切口にしなかった。

 中学までは優等生、特に女子生徒の☆だったようで「あの人は出世しそうだからね」と噂する人もあったと後で聞いた。卒業式の後で下級生の女子二人にサインを求められたのには本当に驚いた。初体験にして一度きり。

 受験勉強なるものも全くせず、第n学区きっての進学校へ進んだが、そこへ行きたかったわけでもなく満員の動く歩道に乗っていたら切れ目の所で降りるに降りられず、次のコンベアーに乗っかってしまったと言うのが正しい。中三で早くも横道に逸れ始めていたのだ。ふと、書いてしまった一行。

 高校へ行くと授業はまるで聞かず、家へ帰って復習もせず、小説を書いていた。その後大樹小説と名づけ、38歳まで書き続け、45まではまた再開するつもりでいた、長いというより量の多い小説の原形がその頃出来上がった。わが人生を一言で表すなら、その小説と心中したと言うほかない。創作は排泄行為なので待ったなし、考える間もなく最優先。ここは一つ、じっと我慢の子、おとなしく然るべき大学へ行き、出版社にでも潜り混み、雌伏ン年、龍か虎か、聞け、この雄叫び!ってわけにはいかなかったんす。

 二十歳過ぎない内にただの人以下。もし、あなたが人の親なら、小中の成績がいいからって多大な期待を掛けてはなりませぬ。子供は裏切るものなんです。父はおそらく文筆で世に出てくれたらいいと密かに希っていただろう。書いたが出られませんでした。三十年前にインターネットがあったらなぁ。日本全国で十人の読者は確保しただろうに。

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四十八歩3/4

 「ロングウェイ・トゥ四九歩」で遅々として進まないのは、万年睡い病悪化、物忘れ加速、気力減退と早い話が基礎体力劣化が一つ、メインのブログ更新だけで手一杯が二つ、last but not  least、書こうとしている内容が余り面白くない。なんか書きたくない。書かなくても進む上で支障はない気もする。

 早くも居眠り。BABAの実力発揮。これから「所さんの世田谷ベース」を見て寝よう。明日は映画館へ凸撃予定。「トロピック・サンダー 史上最低の作戦」サイテ~とルビが振ってある。さしものハリウッドもコメディでは苦戦、ギリでも大丈夫だろう・・・・のBABAの常識を覆し、今時の若ぇもんで押すな、押すなの大盛況だったらどうすべぇ。やっと時代がわたしに追いついたと喜ぶっきゃない!

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四十八歩半

 眩暈歴4週目突入も朝起き上がる時、夜寝る時のフラ~リやまず。薬切れで医者を訪ね、症状を告げると「それは一寸長引いてますね。一度脳の検査をしましょう」

  (待ってました、MRI!)

 と言わなかったのである。「眩暈は2,3週間は安静、その後はリハビリなんです。こういう風に(左右に首を振り)動かしてみて下さい」眩暈にまでリハビリがあるとは!

 脳に重大な病変が!との期待は空しく消えたようだが、死に目が近いのか、このところ死んだ親たち、犬たち、これまでに出会った人々のことがしきりと思い出される。ある個人の死とはその膨大な記憶が失われることにほかならない。しかし、通常その殆んどの部分が生きている間に外部に伝わることはない。予め失われた記憶である。本人にあっても手許の記憶は極く一部で大半は倉庫にしまわれたまゝ埃をかぶっている。何かのきっかけがなければ一生思い出さない事どものなんと多いことか。その上、人に言われても全く甦ることのない記憶まで。

 若い頃から暇でないと創作活動のできない性で、戸川昌子が楽屋で書いて締切りぎりぎり投函したとの逸話を読んだ時はほとほと感心した。15歳から38歳にかけて途轍もなく長い小説を書いては捨て書いては捨てを繰り返していたが、数年前また小説を書こうという気になったものの自分が読んで本当に面白いものをもう一つ書けるわけもなく、本にすれば1冊分、全編で一つの作品となる詩の構想が生まれた。小説より少ない暇で書けるかと狸の皮算用をしてほくそ笑んだが、収穫ゼロ。それが昨日全く別の詩の不意討ちに遭った。蝋燭を両端から燃やすように一つの小説を書いた為、消える寸前の一瞬の炎なのかもしれないとは思う。

 どれ程前か、十年位だろうか、詩人から小説家になった物書きは五万といるが、逆はゼロ?!よ~し、その第1号を目指してやろうじゃないかと無謀な計画を立てた。最高齢新人賞だ!問題は――詩には小説のような新人賞がないことだ。

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よそは広いな、大きいなで四十八歩

 記憶にある最初のわが家は、家は狭いが、敷地は広い・・・広かった。自分ちのものでなかっただけで。下水の整備未だ遠しの頃、前はどぶ川、鞠遊びをするとよく鞠を落とした。その度専用の柄の長い柄杓で掬い出すのだった。眼下1.5メートル、巾もそれ位、川そのものは1メートルか、下町のどぶとは違うのだ、東京の田舎のどぶ川は。(今は山の手と自称)

 川向こうの家は敷地の半分程を畑にしてお祖父さんがトウモロコシなどを育てていた。肥料も自家製の栄養価の高いものであった。きっとうまかったんだろうな。そこの女の子とわたしは確か同い年でよく遊びよく喧嘩、つきあいが密だった割に、猫も埋葬してくれた、トウモロコシのご相伴に与った覚えがとんとない。あれは中学の時だったか、ある教師が食糧難の話をし始めた。米などなくトウモロコシしかなかった・・・・・。その瞬間、教室は静まり返り、全生徒が全神経を集中して教師の話に聞き入った。「君たち、そんな羨ましそうな顔したってね、実が所々にしかついていないとうもろこしなんだよ」それ位憧れの食べ物だったのだ、トウモロコシってやつは。

 その右隣りが例のお屋敷で左半分が、なんと言うのか、一体なんだったんだろう、だだ~っと水槽が広がっていた、極く浅く、小さく仕切られていて何処も水草が繁茂していつでもおたまじゃくしがいっぱい泳いでいた。という印象がある。

 地続きの隣家、その又隣り辺りはよく覚えていない。同年代の子供がいなかったのだろう。確かなのはどこも相当広い敷地であったことだ。その隣りの道路にまでせり出している八重桜の巨木のある家にも女の子がいて、日舞の稽古仲間でもあったのでしばしば遊びに行った。中は日本庭園風な作りで藤棚もあった。あー、よその家は広いなぁ、立派だなぁ。

 と、今も思っている。自宅で誕生会を開く友人たち。かつて父は会社の同僚の家で回り持ちで開かれる麻雀の会につきあわされていたが、自身は自宅に招待できないので遠慮したかったようだ。酒同様、麻雀も自分からはしない。車椅子を使うようになった母の為に移り住んだバリアフリーの集合住宅なら、人を呼べたが、元・同僚も書道仲間も殆んどが世を去り、自身も足元が覚束なくなってからでは遅すぎた。

 只今、築40+α年、コンクリート長屋なる呼び名がこれ程似合う建物もあるまいと思われる集合住宅の狭汚乱の部屋で暮らしております。どこもかしこも溜め込んだ印刷物だらけ。なにせ、己一人が飯を喰う隙間を作るのが大変なので流しの前に立って食べることの多いけふこの頃でございます。そのお蔭で外に素晴らしい誕生会の開催場所を発見、好きな映画をシャンペングラス片手に見ることができるのです。素敵なお宅に住んでいる友人たちにも大受け。長生きはするものだ!しかし、爪に火の暮らしがすぐにも来そうで、そうなったら月1映画さえあやうい。年1がやっとかも。そうなると選び様がないではないか。せめて月1でお願いします、神様!く、く、く、苦しいぃ。

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始終仲良く四十七歩

 わが家はこれまで大きな衝突は一切なく過ごして来た。それは、それは仲の良い家族でございました。というのではない。振り返れば、摩訶不思議な一家であった。

 全員が変人奇人家族なら、日本全国で軽く百組は超えそうだ。いや、千組?わが家の奇妙さは唯一無二。かどうか知る術はない。皆、平々凡々、職業といえば父は中小企業のサラリーマン、母は専業主婦、姉は小さな会社の事務員、その夫は中小企業のサラリーマン。かく申す私は元祖フリーター、時々ニート、今はそのなれの果て。

 何が奇妙かというと父母姉の誰も干渉しないどころか黙って家において置くだけでなく金銭的な援助を今に至るまでしてくれているのだ。親は一昨年相次いで亡くなったが、生前からその中心は四つ年上の姉であった。

 私が小学生の頃までは他愛ないことで喧嘩もしたが、中学生にもなると向こうは高校生、大人である。私が高校生になると既に働き始めていた姉は私の行きたいコンサートのチケットを買ってくれた。どの位の回数か覚えていない。かなりの数でしかもすべてS席であった。趣味を同じくする姉妹なら、一緒に行こうと上が下の分まで買うことはあるだろう。(その代わりB席ね)姉は行かないのだ。レコード1枚買った様子がない。

 私がアルバイトで働き出してからも服を買う金はないので姉は自分のものを買う時は必ず私の分まで買って来た。それも上に着るものだけでなく、下に着るものまで。ブラジャーなんぞ、何年か前100円ショップで200円也の高級品を2ヶ買った以外自分では買った覚えがない。もっと下に着るものも今春電話して来て買いに行くがいるかと訊いたくらいだ。ちょうどみなぼろけていたので「いる、いる!」勿論、金は取らない。既に年金生活者だというのに。未だ働いている私の給料より多いだろうけれど。

 それだけではない。一番大口の援助がかんぽやらなにやらの年金、保険の類、会社に勧誘が来た折、自分の分と合わせて申し込み、掛け金も払っていた。お蔭でその金が入り始めた。十代半ばから野垂れ死覚悟でやって来たのでそういうものに関心がなかった。4年後には国民年金の支払いを受ける資格が得られるらしいのでそれらと合わせ、爪に火を点す生活の始まり、始まり!

 (大きな声じゃ言えないので小さな声で言いますが、国民年金の掛け金も一括で父が払い込んでました。私の知らぬ間に。姉も黙って掛け続けておりました)

 普通の家ならまず父親が「出てけ!」次に姉が「いい加減に出て行ったら?」そして最後に結婚して一緒に暮らすようになった姉の夫が「出てってもらえ」

 ですよね!

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よろよろ四六歩

 初めの頃にもよろよろしたと思うが、今日は文字通り。朝、起きて顔を洗い、鏡を見ると腫れぼったい。特に眼の回りが。や!瞼が先祖返りしている!

 「生まれた時は一重だったのにいつの間にか二重になっちゃって」と母は言った。どうやら奥二重だったらしい。それが年を経るにつれどんどん離れていき、まずは右目が目頭からも離れ、何年かすると左目も離れ、左はよく見ると三重、というか昔の二重の跡が。という話も再登場か。

 年を取ると子供に戻るという。瞼も戻るだろうとの予感はある。食べ物の嗜好も子供の頃に返るそうだ。まずい物ばかりの子供時代を過ごして来て帰りたくないぞ。嗜好となると変わっていないとも言える。ミルク味、バター味が好き。乳製品大好き。砂糖菓子と。近頃、砂糖摂取過剰だったかも。そこで胃をやられた、と。それだけかも。なぁ~んだ。

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四五歩半

 この頃、歩みがのろいのは、ネタ涸れ!ではなくて、百歩ぐらいまではある、筈、タイトルの56合わせを捻り出すのにうんうん唸っているという「愚かね!」な行為に時間が掛かっているから、なのである。見かけはBABAでも中身はG-MANだもんで。

 それはさておき、今週は生まれて初めて眩暈なるものを経験、昨日はこれに吐き気のお伴。激しい頭痛が加われば、すわ、脳腫瘍。となるところだが、それはない、残念。でもないか。友人たちに本やDVDを形見にと配って歩く暇と力をお与え下さい。ガンのがいいよなぁ。

 根拠はないが、今年中に死ぬような気がしている。さっき、洗面台で顔を洗っていたら、又、眩暈が。どうも頭を下げると世の中が回るらしい。すると、上げれば、止まるのか。うん?

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死後もしつこく四五歩

 3頭目、最後の犬が逝って久しい。犬猫専用の墓地に葬られていたが、二年前相次いで亡くなった親たちと共に眠ることとなった。ペットは家族と考える人が増え、高嶺の花、いや高値の墓だった人畜兼用霊園も我々の手の届く所まで下りて来た。その代わり、墓地に辿り着くには急坂を上って行かねばならない。

 2頭目が未だ元気にしていた頃から「お前を作家の犬にしてやるからな」と言っていた。3頭目の時も然り。全員、鬼籍に入ってからも(動物は畜籍か?)墓参りの度、「お前たちを作家の犬にしてやるからな」と言い続けた。そうは言っても雑誌に載せられるような写真は殆んどない。そうだ、CG駆使して粉飾掲載だ!

 なぞと言うのを犬たちが聞いたら、人間というのはまことに愚かな生き物だと思いっきし軽蔑されるだろう。彼らは時々人間は全く度し難いという目で我々を見る。墓を作る、死後も思い続ける、それも又人類の膨大な愚行の一つ。向こうで犬たちと再会したら「お前たちを・・・・」

 「三銃士」も繰り返し読んだ本だが、書き落とした。「三十四歩」であったか。(アホ!)なんか、言った?

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児童書と四十四歩

 絵本の次は児童書というのか、子供向けの本を読み耽った。繰り返し読んだのが「岩窟王」「雨月物語」「里見八犬伝」すべて短縮版の翻訳版であるのは言うまでもない。「岩窟王」は投獄されたエドモン・ダンテスの隣りの牢屋に囚われていた老人がいろいろ工夫してインクまで自家製造しているのにワクワクした。

 「雨月物語」は円地文子訳、中でも「菊花のちぎり」、約束を果たす為、腹掻っ切って亡霊になってまで会いに来る心情はいかなるものか、不思議でならなかった。十代も半ばを過ぎると「ああ、そういうことだったのか」と得心した。それにしても露骨な題だ。

 3冊ともその後子供向けでないものを読んだ。「モンテクリスト伯」はいつか原書を読もうと思いつつ、未だ果たせない。どうやら、果たせぬままに終わりそうだ。ある数学者のいわく「読むのは僕一人なのに書くやつが多くて困る」

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始終散歩四十三歩

 食事と散歩、これが犬の二大関心事。小学生時代がわが生涯で一番お洒落な時期だったので犬の散歩に出かける前は必ず髪を梳かした。その様を見るとマリは大喜びして何度もジャンプするのだった。3,40センチくらいなものだったのだろうが、7,80センチも跳び上がっていたように思える。そんなことをするのはその犬だけだった。

 大往生を遂げ、一月ほどたった頃、隣の隣の人が「お宅で飼って戴けないでしょうか?」とスピッツらしき子犬を持って来た。一週間前、シェパードに喰いつかれ溝に落ちていたのを救い出したのだという。鼻の脇に傷跡があり、掌に乗るほどの小ささ。余り、可愛い顔つきでもなかったので姉は気に入らず、返してしまえと言ったが、わたしは犬ならなんでもよかったので「飼う!」と主張した。前任者の頭の一音を取り、マコと名づけた。ほぼ日本スピッツ、雄。

 彼こそ「みにくいアヒルの子」であった。半年もすると可愛いのなんの、いやでも人目を引く犬に成長した。ある家の前を通りかかった時、そこはちょうど台所で物音に見上げた犬と開いた窓から外を見やった人の目が合った。「まぁ、可愛い!」

 獣医さんの待合室で待っていると向かいに座っていた人たちがその美貌に目を止め、「なんて美男なんでしょ」「人間だったら、大変ね」姉の旦那が散歩をさせていた時は、自転車で通りかかった男の人から「いい目してんね!」と声が掛かったそうだ。

 引き取りたての頃、段ボールの箱に座布団を敷いた中で育てた為か、生涯段ボールハウスに執着した。行きつけの雑貨屋さんからクリネックスの段ボールの空いたのを貰い、それを横にすると座布団がぴたりと入る。バスタオルを敷けば寝床の出来上がり。先祖はサモエドだのジャーマンスピッツだの洋犬だが、立ち耳、立ち尾、日本犬と同じ特徴を備えた日本スピッツは一主人型、警戒心が強く、知らない人間には容易には慣れない。ベッドで一緒に寝たいのに断固拒否、「自宅」で一人寝。その為に冬、肺炎になってしまい、それからは湯たんぽを入れることにした。抱かれるのも嫌いで、それでも抱き上げるとすぐ下せという。それでは一人が好きかというとそうではなく、人に同じ部屋、空間にいてほしいのである。が、肌を接するのは嫌いなのだ。勝手な奴だ。そこがたまらん。( ^ω^)

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四二歩半

 一昨日、行われた中央競馬のGⅠレース、スプリンターズステークスは第42回であった。明日、行われる大井競馬の東京盃も第42回である。

 クロフネの仔だからスリープレスナイトとは日本馬には珍しく洒落た命名だ。珍しい毛色でアイドルホースになったユキチャンも父親はクロフネ。が、競走馬の世界では父親が同じでもきょうだいとは呼ばない。人気種牡馬なら1年に200頭前後の仔が誕生するからだ。母を同じくするものだけがきょうだいと呼ばれ、且つ父が同じであれば、全弟、全妹のように言う。horse

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世に流行るものと四二歩

 わが家に犬がやって来た。時の流行犬、日本スピッツ、雌、推定10歳。名前はマリ。

 わたしは猫がいても犬が欲しいっ!と思う生まれついての犬好き。対する父は動物嫌い、猫ならなんとか我慢するが「犬なんか飼ったら俺が出て行く」と言うくらいの大の犬嫌いとあっては諦めるしかなかった。が、天は我を見捨て給わなかった。この僥倖の立役者は父の姪、即ち、又してもわが従姉である。「一寸の間、預って」

 数週間ぐらいのことだろうと思っていたがそれが数ヶ月になり、とうとう一年。姉と結託し、もう返さないと頑張ろうと誓い合った。二人が強硬に「返さない」と言い張ったので渋々従姉も引き下がった。晴れてうちの犬になり、五年を過ごし、眠るように大往生。元々は従姉の友人、われら姉妹のピアノの先生の犬だった。と聞かされていたが、後にもう一人、最初の飼い主がいたと判明した。先生の元恋人で作曲家だったと記憶するが、とにかく音楽畑の人。一度犬に会いにやって来た。その時の喜びようといったらない。本当はその人と一緒にいたいのだろうと思うと可哀想になった。

 「全く勝手なんだから!」知った同士の間といえ自分たちの都合で次々犬を人手に渡す無責任な飼い主に母は憤慨した。どんなことがあっても犬とは添い遂げよ!とはいえ、勝手な人々のお蔭で犬が来たぁ~!

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好い青年と四一歩

 わが従姉はナイトクラブで歌っていた一時期、やくざの親分に囲われていたことがあった。一軒家に住まわせてもらい女中さんまでついていた。一度泊りがけで遊びに行ったことがある。親分さんにお会いしたのはその時一回だったと思うが運転手さんにはその前後何度かお会いした。

 はっきり覚えているのは二回。その人の運転で従姉と姉と三人で葉山へ行った。帰り道の渋滞のひどいことと言ったら。半ば嘲笑うような涼しい顔で脇を抜けて行った人にとうとう追いつけなかった。もう一回は山王かピアノの先生の近所か、従姉が用事をしている間、姉とわたしを乗せてそこらを回ってくれた。前方の地面が見えない急坂を下りたので忘れようにも忘れられない。感じでは45度 downwardright んなである。

 未だ二十代だったような気がする。或いは三十代初めか。子供に大人の年齢は分らない。実直そのもの、口数の少ない好青年であった。やくざ屋さんの運転手と聞いて思い浮かべるような種類の人とは余りに遠い。それでもダッシュボードにはチャカ、いやハジキが入っていたのだろうか?持っていそうな倶利伽羅紋紋のオアニイサンたちの姿は残念ながら(?)見かけなかった。

 あの寡黙に挫折を見る。今は。

         そして、あの車がベンツだったのね!

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よその地で四十歩

 引っ越した先の小学校には一年間しか通わなかった。が、記憶に残ることの一番多い年でもあった。転校したてはいじめに遭った。後にも先にもその時だけだ。学芸会で「羽衣の天女」を上演したこと、担任の先生が文集作りに熱心で既に始まっていた書くことへの情熱が更に高まったこと。

 しかし、作文は嫌いだった。日常の出来事には興味がなかった。手作り紙芝居に文をつけることになると俄然張り切った。なーに、作文だってウソ八百でかまわないのさと作りごとを書いて平然としているようなら、今頃は大作家?

 もう一つ忘れ難いのは級友に絵のとてもうまい人がいたことだ。名前も思い出せず、顔も覚束ないが、描いた絵だけは覚えている。きっと少女漫画かイラストの世界で活躍しているに違いない。生憎、そっち方面には疎く高名な漫画家になっていても気づかないだろう。一度、よく似た絵を新聞の展覧会紹介記事で見てひょっとしたらとわざわざ見に行ったら、年齢も上で且つ男だった!

 案外、専業主婦になっていて自分の子供にだけ描いている・・・・今なら孫にか。としたら、勿体ないなぁ。古今亭志ん朝の母親も絵のうまい人だったらしい。今ならその才能で身を立てていたかもしれない。惜しいなぁ。

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三重苦歩

 どういうわけか小4の時はよく一人で歌わされた。音楽の時間以外にもなんかかんか歌っていたような気がするが、それよりなにより「羽衣の天女」を脚色、演出、主演したことが最大の出来事だった。歌うことも好きだが芝居をするのは100万倍も好き。小中とクラブは化学部で通したが、本当に入りたかったのは演劇部だった。入りたくてうずうずしていた。ああ、それなのにそれなのにナゼ入らなかったのか?

 あんなガキ臭い芝居、ちゃんちゃらおかしくて誰が!

 小5か6の時、クラスで衣装も装置もなしに化学部の男子三人とで「ベニスの商人」の法廷の場を上演した。脚色、演出、主演!なんと気持ちの良かったことか。ああ、それなのにそれなのにソレが人前で演じる最後の晴れ舞台になろうとは!

 幾ら考えてもナゼ化学部が芝居をやったのか、全く思い出せない。そして二つの芝居の主演男優(複数形)とはheart04の仲だった。たって、小学生ですからね。なーもありません。

 やはり、小4の時だったと思うが、一度だけ従姉に発声を習った。あと二度ぐらい、習っておきたかったなと思う。30代40代は一人部屋で歌うこともなかった。50代に入って又ぼちぼち歌い出した。生まれつきいろんな声を出せる。アルビンのような声でもテナーでも!ヨーデルでも端唄でも。ああ、それなのにそれなのに唯の一度も歌手になりたいと思ったことはない。役者にはなりたかった。単純に芝居の方が好きだったからだが、職業的歌手になるには一つジャンルを選ばなければならない。オペラかロック、フォークソングか歌謡曲、長唄かファド、etc. もし、ハスキーボイスに生まれついていたら、ジャズ歌手を目指したかもしれない。

 都会のネズミ小屋ではなかなか音量目一杯で歌うことは叶わぬが、それでも腹から声を出すのは爽快だ。が、歌舞伎や狂言の台詞を喋る時の気持ちのいいことと言ったら!松の木でもいいから、死ぬまでに一度舞台に立ちたいぞ。幼稚園の学芸会でも可。

 それくらい演じることが好きだったが、8歳か9歳の頃、もっと好きなことに出会ってしまう。「小公女」の主人公セーラはお話を作るのも得意だった。わたしも書いてみようかしら?と思ったのがわが人生最悪の時だった。とはその時は勿論その後三十年以上も気づかなかった。

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ド三十八歩

 初めて歌ったのが幾つの時か、覚えている人はいるのだろうか?大人になって無理強いされて、はng

 しきりに歌ったのは雪村いづみの「遥かなる山の呼び声」この曲と「青いカナリア」はいづみでなけりゃ、なのだ、今もなお。ラジオの歌番組の目当てはひばり、合わせて一緒に歌った筈が、特にどの歌との記憶がない。おそらく、あり過ぎて特定できないのだ。

 織井茂子の「黒百合の歌」も愛唱歌であった。しかし、ある時自分では子供離れしたと思える声で歌っていると「子供がそんな歌、歌うもんじゃありませんよ!」と母に叱られた。どこがいけないのかさっぱり分らなかった。今もそう悪いと思えない。

 学校で教わる歌はどれも面白くなかった。例外的に好きだったのは「ちいさい秋」同様に三橋美智也の歌でこれだけはいいと思ったのが「星屑の町」どちらもおおたか静流が「リピートパフォーマンス」で取り上げたのは偶然ではないだろう。長じて日本の歌で一つ選ぶとすれば「雪の降る街を」だと思うようになったが、「ちいさい秋」と作曲者が同じだった。子供の頃、好きだった曲、歌手は今でも好き、嫌いだったのは今でも嫌い。

 両親、姉の誰一人として鼻歌を歌っているのさえ聞いたことがない。口笛も吹いた様子がない。全く歌わない人類は永遠のナゾである。

 

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皆さ~ん三七歩

 373歩まで待てない。精々100歩でお仕舞い。そこで37歩を記念して1桁年齢時好きだったこと、もの、いやだったこと、もの総まくり!

 《いや編》   

1)  白木屋へ行く時、ガードをくぐらねばならなかったこと。電車の轟音が恐ろしかった!遅くも小3の頃には平気になった。

2)  三本川で寝ていた頃、父に頬擦りされること。伸びかけの髭で痛かった。

3) 体育の時間、運動会。運動神経0。

 《好き編》

1)  やしまのボンボン。浮き輪形の砂糖菓子の中に色、香りのついた砂糖水が入っている。今でもカルメ焼き、メレンゲなどの砂糖菓子、大好き。

2)  二親に左右から腕を持って貰って空中散歩。

3)  Singing, acting and writing

 

 

 

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級長と三十六歩

 その後、二度♀であることで屈辱を味わった。小学校5年、いや6年の時、投票により級長と認むとされたのに担任教師が「あなたは女だから級長は男子の誰それに」と次点の男子生徒に回したのだ。別に級長なんぞやりたくもないし、既に何度もやっているのでそのままにしたが、言われた時の不愉快さは一生忘れない。その教師が女だったから余計許せない。どうやらその男子生徒は私立の中学を受験するらしく内申書に級長!と書き込みたかったらしい。

 三度目は受けろと言われた高校が旧制中学の奇数校だった為、女子は男子の半数しか取らないと知った時だ。女子は入れたくない本音が丸見えであった。公立の高校でこんな男女差別が罷り通って委員会?え?!

 後から考えると「両手に花」状態だったのね。生憎、いい男だなぁと思ったのは一人しかいなかったが。

 

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三つ子の魂三五歩

 薄給サラリーマンと結婚して金で苦労した母は娘二人をこう言いながら育てた。「女も自分の力で喰えるようにならなきゃダメよ」

 無口な父は何も言わなかった。これには別の理由もあった。なんであったか忘れたが。あることで「わたしがやりますから、今後、娘の教育に一切口を出さないで下さい」と宣言したのだそうだ。

 今はそうでもないが、子供は男子が望まれた時代、二番目は是非男の子をと願っていたらしく、幼稚園の頃までであったか、母はわたしを「坊や」「坊や」と呼んでいた。勿論、いやだった。屈辱を感じ、女で何が悪い?

 百万回生まれ直しても、女に生まれたい。唯、一回たりとも専業主婦として生きたいとは思わない。ま、一回位なら、う~んといい男に生まれてもてまくってみたいが、一回目がそれだと百万回生まれ直しても、になってしまうか。

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石の上三十四歩

 無理にでも石上三登志の874は471。所は石の上でなく、海の底。人魚三姉妹。退屈しのぎは庭造り。一番下のリトル・マーメイドは難破船の置き土産、若い男の像をその中心に据える。オー、なんと美しい!

 たとえ、一桁年齢といえ女が男の像を愛でる常ならざる所業に心臓がドコドコした。<絵のない絵本>に納められた<人魚姫>を繰り返し読んだのはその為だと後に覚る。銀幕の美男に一目惚れしたのは更に遡ること一年か二年。

 その昔、長谷川一夫、林長二郎と言うべきか、の映画を見た女性客は自分が見られたと錯覚し、一層想いを深めたと聞く。更にはあわよくば「お嫁さんになりたい」と夢み、実際そのスターが結婚すると人気が下がったりしたそうだ。といった類いの妄想とは初めから無縁であった。出てる映画を見たい!そして映画は別世界、この世のものではないので現実と混同しようもなかったのだ。

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柳家三三歩

 無理にでも落語の話をしなければならないタイトルである。わたしの一番つきあいの長い(中三から)友人は三三の師匠(と思ったが、間違ってたらごめんなさいよ)小三治のファンである。わたしもケッコー好きである。

 母は志ん生が好きでよくラジオの落語番組を聞いては一人で笑っていた。馬生、志ん朝も好きだ。志ん生は「二階ぞめき」馬生は「もう半分」志ん朝は「井戸の茶碗」がそれぞれのこの一席。志ん朝は中学が同窓で本当に若手の頃、頼まれたのだろう、やって来て講堂で噺でなく話をした。どこそこを受けたが断られ「来なくていいってもんを無理に行くこともないと思って独協学園に行きましたが」とかなんとか。その「どこそこ」がわたしの高校だったような気がしてる。志ん朝が定期的に独演会を開いたあの劇場の裏、いや表?の学校である。

 好きということでは五代目可楽、八代目柳好。晩年の柳好は可楽に似て来たと言われ、なるほどと思った。

 生きてる噺家で聞いてもいいのは小三治だけか。古今亭も一番長生きしたのは一番無茶をした親父だったとは。

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サバサバ三十二歩

 その絵本をいつから見始めたのか、しかと思い出せぬ。我々の頃は幼稚園で文字を教えることはなく、親たちも余計なことはしなかった。文章は大人が読んでくれたのだろう。

 実際そうだったが、奇妙なことにその件に関しては母との思い出は完全に消えてしまっている。父が読んでくれた記憶だけが残っている。<フランダースの犬>だったか、涙が溢れ、それを見た父が先を読むのをためらったことを覚えている。未だ字のよく読めなかった時期<絵のない絵本>を読んでもらい、やがて自分で読むようになった。おそらくそれが絵本でない本の、いや、<イソップ物語>であったか、生まれついての説教嫌い故、どうも好きになれず、忘れかけていたが、そっちが最初だったかもしれない。

 絵本も母が買うことの方が多かったのだろうが、父方面から湧いて来たような気がしてならない。本好きの父は二番目の娘が間違いなくその血を受け継いでいると見て、惜しみなく与えたのではないか?

 絵本を譲る時、些か惜しく思う気持ちを隠せなかったが、今はうんとこさ、惜しいぃ~~~book

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担架で三十一歩

 引くに引けず切る啖呵、やむにやまれず詠む短歌、動くに動けず出る担架

 <サンタンカ>と題して既に別のブログで発表済み、盗作ではないぞ、同一人であるぞ。<最後まで風流>廃人になって担架で運ばれる なんてのも。かやうに言葉と遊んで半世紀+2or3、そもそもの始まりは好男子の、ウムム、講談社のエロ本、なわけないだろ、絵本!

 従兄の子にそっくり譲り渡すことになった時、数えてみたら50冊ぐらいあった。今でも表紙や絵をよく覚えているのは<シンデレラ><雪の女王><白鳥の王子><幸福の王子>なんでぇ、みな、王家の話か?そうでぇ、オイラは王党派よ。雅子さんがお気の毒で・・・・・よよよ。weep

 <シンデレラ>は縦ロールがなんとも美味しそうで、じゃなかった、現実離れして魅力だったが、ガラスの靴なんてものがありうるのか、王子の手許に残った片方の靴だけがボロ靴に戻らなかったのはなぜか、不思議であった。最初の疑問は仏語から独語に訳す時の誤訳が発端と後に知り、解決するも二つ目は未だに???

 <雪の女王>は大人の女が男の子をさらう常ならざる展開に胸騒ぎがした。たとえ、一桁年齢であろうと大人の男が女の子をさらうのが常と認識していた。それもありかぁ?!

 <白鳥の王子>は白鳥にされた兄たちを妹が救う常ならざる展開に心臓がドコドコした。たとえ、一桁年齢であろうと妹を兄たちが救うのが常と承知していた。そんなの、ありぃ?!

 <幸福の王子>は像やつばめが喋るか?!貧乏人が急に金を持って行ったら怪しまれるだろうが、王子の像が丸裸になるまで誰も気づかなかったんかい?と異常な事だらけなのだが、中でも尋常ならざる事態は美しい像が若い男であったことだ。たとえ、一桁年齢であろうとその美が讃えられるのは女と刷り込み済みであった。いや、刷り込まれ済みと訂正しよう。

 十年ほど年旧りたる後、そうかぁ、そうだったのか、う~ん、それでいいのだ!

 

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そこがミソ三十歩

 家から風呂が消えたので離れの大浴場、銭湯とも言う、へ行く。張本人の従姉も近くに棲息している間はよく連れて行ってくれた。夏場は帰りにかき氷。あたしはモチロン氷いちご。従姉はレモン、そして必ず三ツ矢サイダー。頼んだ品が来るとまずサイダーを飲む、のではなく、かき氷の上に掛ける。そこがミソだが、降り積もった雪に雨、のグシャグシャ状態。遠慮しま~す。

 大人になって、思い出し、やってみた。もう一度という気にはならなかった。あれは関西のみぞれなるものに近いのだろうか?ある時わたしがメロンやデラウエアのこってり甘い汁は喉が痛くなるので食べないと言ったら「わたしは大丈夫。何を食べても声は出るわ。唐辛子の辛いのも平気で食べるから、あなた、韓国じゃないの?って韓国人の友達が言うくらい」

 激辛時代到来の、遥か以前のことだった。

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至福二十九歩

 上邑へ行くと必ず二階に上がり、決まってアイスクリームを注文した。ガラスではなく銀色の金属製の器だったように思う。白い半球の脇にはウエハスが添えられていた。特に美味しかったとの印象はないが、不二家へ行くより大人になった気分がしてそれが何より嬉しかった。

 至福の境地に些か水を差すのが母が水しか飲まなかったことだ。何も欲しくないと言うのだが、節約の為と分っていたので自分だけ食べるのが心苦しかった。

 一階がどのような作りになっていたのかどうにも思い出せないのだ。その側に通りに面したウインドウに水飲み鳥を置いている店があった。果たして何の店だったか。水飲み鳥も今や絶滅した。

 そこから程遠からぬ所にあったのが姉と一緒に東映の映画を見に行った帰りに寄った甘味処、切り立った山のように盛り付けたあずきアイスが名物で注文するとお姉さん方が「山一丁!」と威勢よく呼ばわるのだった。しかし、いつも二つの筈が「山二丁!」と聞いた覚えがない。映画を見始めた頃は大井セントラルばかりだったが、その山に魅かれ、小学3年の頃は大森で見ることが多くなった。見たい映画はみな見せて貰っていたのだから、どうやり繰りしたのかと又考えてしまう。

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不二家二十八歩

 明治の板チョコが普段のおやつだった頃、不二家のheart形ピーナッツチョコレートは最高の贅沢だった。(笑うな!)町のパン屋のクリームパンが何かの澱粉を黄色く色づけした紛い物だったのに対し、不二家のクリームコロネにはカスタードクリームが詰められていた。

 日々のおやつは子供の足で精々5分の店で調達したが、不二家までは15分、行く時は必ず母と一緒だった。それだけでも特別の場所の資格がある。その上、山王の住宅街を抜けて行くのだ。どこの家もひっそりして人と行き合うことも滅多にない。中でもよく覚えているのは前庭に棕櫚の植えられた洋館だ。あの頃は棕櫚が洋風と考えられていたようなのだ。ヨーロッパの庭にはまずなさそうであるのだが。そこは住所的には山王でなかったかもしれないとも思う。

 大森駅前の店は二階がパーラーになっていて何度か入っているのは間違いないのだが、斜め向いにあった上邑の印象にかき消されぼんやりしている。真後ろの高台の神社からは東京湾を見渡すことができ、行き交う船が鮮明に見えた。キネカ大森へ行った折、何十年ぶりかでそこに立って見ると高くなった建物に遮られ、知らない人ならその向こうに海があるとは想像すらできない景観が広がっていた。

 遠足と言えばハリスのチューインガムと森永のキャラメルが付き物だった頃、不二家のミルキーは高級な飴であった。その名の通り、ミルクっぽ~~~い味が喉にまで沁みて、しあわせいっぱぁ~いsign01 後年、上等なさらし飴も同じ程美味と発見するのだが、「登場!ミルキーの千歳飴」を目撃した時の口惜しかったこと。間に合わなかった!ン?早く、生まれ過ぎた?

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太菜二十七歩

 わが家ではほうれん草に対し小松菜を太菜と呼んでいた。なんてことはない。

 わが母の家では切り餡をなぜかヘソパンと呼び習わしていた。ある時未だ幼い一番下の弟に買いに行かせたら「そんなもん、ありませんよ」と言われ、ベソをかきながら帰って来たそうだ。以来、彼にとってヘソパンはベソパンになった。とは、聞いていない。

 ついていないことには、花柳界入り浸り適齢期になる前に太平洋戦争とおそらく兄二人の放蕩も手伝って家業は傾いていた。山っ気があり、終身雇用な人生は送れない性分であった。息子三人が揃って不肖であるのを憂いて祖母が良く当たると評判の占い師に見てもらったところ「男は皆ハズレですね」とバッサリ切られてしまったとか。しかし、今の世なら、娘三人だってグッチだナンチだのの一方でホストクラブ通いで身上潰しに一役、いや三役買っていたかもしれないではないか。

 「一生喰うには困らないが、金には縁がありませんね」とは母に下ったご託宣。これは見事に当たっている。が、大抵の専業主婦が「本当だったわ。占いの通り!」と言うだろうことも又確かなのだ。

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ニトロ二十六歩

 「大きくなったら何になりたい?」とみんな何度も訊かれて大きくなったぁ。筈。わが答え第1号は物理学者。物理学の何たるかも知らぬ頃。では、ナゼ?絵本で見たキュリー夫人の勇姿に「わだは日本のキュウリになる!」

 と言うよりもシャーレやフラスコ、試験管に魅せられた。だもんでクラブ活動が始まると物理部でなく化学部へ。女子は1年上の生徒だけ、翌年その人が卒業すると一人になってしまった。中学も3年間化学部にいたが、女子はほかに誰一人入って来なかった。2年の時、新入生が二人覗きに来たが男子ばかりと見るや尻込みしてとうとう中に入らなかった。その後は覗きに来る人すらなく。

 同級の男子仲良し三人組も同じクラブだったのでなんとなくメンバーに。以来、今に至るまでいつの間にか男の子クラブに仲間入りしている己を発見するのであった。

 マリ・キュリ→ノーベル賞→ノーベル→ダイナマイト→ニトロ→二十六 bomb

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≦ 二十五歩

 二十五→≦→不登校 になっていただろう、今、小学生だったら。アメリカ直輸入の民主主義がfresh out of oven、というより単にのんきな時代であった。尤も5,6年生を過ごした小学校の成績上位者はその多くが家庭教師についたり塾に通っていたという。目指すは同じ区にあるあの大学!

 けれど、皆が皆、その方向へ駆り立てられていたわけではない。と言って現在日本全国津々浦々の小学生が一人残らずあの大学目指して奮闘努力させられているわけでもないだろう。が、一応スタートラインには並ばされているように思える。いやいや、今の学校のことは分らない。

 よくよく考えてみると自分の頃もほかの学校のことは知らないし、小中学校となるとやはり成績上位の生徒たちの動向しか分らない。中学を出ていきなり就職した人もいたかもしれないが、極めて例外的だったろう。他のクラスには在学中に音楽教師と婚約、卒業と同時に結婚した人がいた。そのまま、順調に行っていると曾孫がいる?

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太!二十四歩

 horse 昔小島、今小牧。二十四!言ってみただけ。

 記憶の黎明期にある映像は星雲のようにぼんやりしている。確かに見たのを覚えているのか、それとも「・・・・・荷馬車が未だ走っていて馬が鞭で叩かれているのを見て可哀想だと泣いていた」との母の話が星座の図表のように輪郭をつけてしまったのか?

 「道端で死んでいる猫を可哀想だと撫でて泣いていた」のは覚えていない。その後一緒に暮らした三匹の犬の死に際しては大泣きした。友人の犬の死を知らされても涙がこみ上げて止まらなかった。それどころか、新聞の投書など全く知らない犬猫の死を伝える文を読んでも涙が滲んでしまう。

 「泣くシーンがあるとブリジットは死んだ犬のことを思い出して上手に泣いたものです」とロジェ・ヴァデムは語る。何年たとうと思い出せば、いつでも泣けるのだ。大地震などの災害が起こると真っ先に動物たちの身を案じてしまう。助け出されたとか又一歩に、基、一緒に暮らせるようになったとの報告を聞くと「良かった、良かった」と安堵する。

 実人生で犬猫以外で泣いたことがない、例の脅し泣きを除いては。わたしは鉄の女。なのでなく、泣くような局面に立たされたことがないだけ。つまり、何事も起こらなかった。今も小学生時代と同じ生き方をしてる気がする。仕事も色恋も―――話すようなことは何もない。

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葉っぱ2323二十三歩

 戦後間もない頃の山の手と呼ばれていた地域には一面雑草に覆われた空地があった。それは原っぱと呼ばれていた。囲いも何もなく出入り自由、たとえ鉄条網が巡らされていたとしても必ず入り口が開けられていた。数珠玉、赤まんまなどが子供の背丈程に生い茂り、藪枯らし、烏瓜、蚊帳吊り草、露草、車前草など、雑草天国、ガキ帝国であった。

 住宅がこわされ更地になって暫くすると雑草に覆われるのは今も同じだ。しかしそこは余りに小さく近頃は出入り不可が徹底している。生えている草も昔と種類が違い、子供の背丈に及ぶものがない。数珠玉などもう何十年も見ていない。沿道の躑躅はそこここで昼顔にのさばられているが、これも子供の頃に見慣れていたものと顔つきが違う。もし、原っぱが再現されたとしても子供たちがそこで遊ぶこともないだろう。

 あの土地は一体なんだったのだろう?振り返ってみると不思議だ。昔のマンガには空地に土管の積まれた光景がしばしば登場するが、確かにあった。その上に乗って遊んだ覚えもある。そもそも誰のものだったのだろう?原っぱなるものは。

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2匹で2ャー2ャー二十二歩

 わが家には猫がいた。赤虎の雄、猫としては一番ありふれた「たま」という名だったと思うのだが、以前ははっきり覚えていた筈なのに今はあやふやで「とら」だったかしらんと迷い出す始末。賢くて外から帰って来ると玄関で足を拭いて貰うまで決して中へ入らなかった。

 わたしが這い這いしていた頃、姿が見えないので探したら台所で猫のご飯を食べていたそうだ。道理で今も猫マンマが好きなわけだ。おにぎりはまずおかか。そして猫は赤虎。「子猫物語」以来、茶虎と呼ぶようになってしまったが、どうにも気色が悪い。生揚げを厚揚げ、青じそを大葉と呼びならわす習慣も同様だ。

 後年、英語ではマーマレードと形容すると知った。成程!淡い橙色の地に濃い同色の縞、まさしくオレンジマーマレード。これ又大好物。というのは関係ないが、どういう事情か忘れたが、白黒斑の雌が来て、暫くすると赤虎は出て行ってしまった。唯、そこら辺にはいて、何ヶ月か後、向いの家の縁の下で死んでいるのをそこの人がみつけ、知らせてくれた。庭に埋めたような気もするが、向いの人が自宅の庭に埋めた後その話を伝え聞いたようにも思う。

 白黒斑はみぃと言ったか、引越し先にも連れて行ったが、どれ位たった頃か、いなくなりその後の消息は全く不明。わたしと姉の寝床で寝ていても母が覗くとゴロゴロ喉を鳴らし、掛け布団を戻すと途端にやめる可愛くない猫だった。大好きだった赤虎を追い出した奴との恨みもあって、今でも白黒斑の猫だけは好きくない。

 それなのに、猫友二人の猫は白黒斑。元お隣りの人の猫は赤虎。ペルシャと日本猫のMIXなのでデカイ。一度紐をつけて散歩させていたら、小さな男の子が「あれ、猫かな?犬かな?」と真剣に悩んでいた。猫だけはどっしり君で顔は横にワイドがいい。思いっきりぶっさいくでもcatだけはoksign01

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2頭で1二十一歩

 隣家に犬がやって来た。ジャーマンシェパードの雄だった。金網越しによく対面したが、直々拝謁もした。やがて雌の子犬が加わった。これが何ヶ月かするとエラソーに吠えるようになった。小さい頃、可愛がったのに忘れてしまい、あれはバカ犬だと母は言った。

 「バカ親」の方は吠えられるのはいじめたからだなどと言いがかりをつけた。今考えると子供だから馬鹿にしたのだろうと思う。犬なるものは自分は家族の一番下よりは上だと考えるらしい。ひょっとしてそいつはわたしを家族と思ってた?なんてことはアリエネー!だが、内側を守るのが犬、外にいる奴には吠えちゃうぜ、で雄犬も一緒になって吠え立てるようになった。いささか、こわくもあったが、なぜ吠えられるのか納得できず、悲しかった。

 わたしはこんなに犬が好きなのになぜ?????

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ドウニカ二十歩

 わが母と正反対の態度を取った人もいた。こちらが「加害者」となった出来事だ。

 元・焼け野原と言ったが近隣の家はみな古くそこだけ直撃弾を受けたのか別の理由で更地になったのか、本当のことは分らない。そこへ持ち主の息子(と思うのだが、違っていたとしても何の差し障りもないのでそういうことにしておく)一家が越して来ることになった。立派な家が建ち、わが家との境は金網で仕切られた。

 上が男の子、下が女の子、年齢も近いので当然ながら家に招かれ、結構よく遊んだ。今で言うダイニングキッチンで生まれて初めてチーズなるものを供された。石鹸みたい!今なら見向きもしないプロセスチーズなり。

 ある時「狼ごっこ」なる遊びを思いつき、興に乗ってのなりきり「狼」両の手の爪を立て獲物の男の子を追いかけている内、うっかり鼻の頭を引っ掻いてしまったのだ。母親はカンカンになっておこり、以来お出入り禁止になった。ような気がしている。

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泣い泣い十九歩

 人間の記憶は強烈な体験なら3歳から始まるという。そしてそれは3歳の時だった。

 わが家の斜め向いに鬱蒼と木の茂るお屋敷があって住み込みの女中さんがいた。その人に我より一つか二つ上だったような気のする男の子がいてほかの近所の子供たちをまじえ、一緒に遊んでいたようだ。なんせ二百坪の敷地の未使用部分は元・焼け野原で何の跡か、周りを石垣で囲まれた「小山」があり、子供たちの格好の遊び場になっていた。捨てられたゴミからいろんなものが芽を出してかぼちゃが実をつけたこともあった。

 事の始まりは忘却の彼方だが、ケンカになり向こうが先に碍子の破片を投げて来た。それは二人の中間より少し手前に落ちた。そこでこっちは更に近くに投げ返した。されば、もっと近くにと考えるのが人の常、勢い込んで投げたそれがわが顔面に命中した。痛くもなく、驚きもしなかったが、当てられたからは脅かしてやろうと泣くことにした。この経緯だけは鮮明に覚えている。

 ちょうどその時、母が従姉だったか近所の人だったか大人の女の人と一緒に買い物から帰って来た。すぐさま、近くの眼医者に運び込まれ「あと1センチずれていたら失明していた。傷は残らないだろうし、残ったとしても化粧をすれば分らない」という話は後年の記憶かもしれない。その夜か翌日か、男の子のお母さんが見えて平身低頭して謝る姿はまるで主人家のお嬢さんに怪我を負わせてしまったかのようで子供心にも気の毒に思った。

 わが母は子供同士のことだからと意に介さず、責めるような態度は毛ほども見せなかった。もし、失明していたら、果たしてどうだったか。あそこまで泰然としていられなかっただろうが、それでもなじったり恨んだりはしなかったと確信する。

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エイッ、ヤッ十八歩

 小学校は四回変わった。内引越しによるものは一回だけ、あとの三回は一体なぁ~にぃ?と気になりますねぇ。heart様子のいい男の子に付け文したのがばれて放校処分sign01だったら、G-MANしちまうね。

 最初の学校は一年生の一学期までしか通わせて貰えなかった。学費のお高い私立だった、わけはなく、立派な区立、家から行くには往来の激しい通りを一つ渡らねばならなかった。それを心配した祖母が騒いで二学期からは姉の通っていた別の区立校へ転校する破目に。わたしは精一杯抵抗した。信号はあるし、気をつけて渡るから大丈夫だと声を大にして何度も訴えたが無駄だった。わが人生挫折第一号なり。

 二度目は三年生の終わった時点でお引越し。川向こうの田舎へ都落ち。四年生から地元の学校へ。東京から一歩しか離れていないというのにそこは別世界だった。まさか、ガキ大将の男の子たちからいじめに遭うとは。それが因で一年で去った。と思う?思わなかったあなたは鋭い!「愛い奴じゃ。どこそこの領地を取らすぞ」と言うところだ、ご領主さまなら。

 今度は伯母一家(伯母+その長男+多分祖母も)が田舎の学校は遅れている、うちに寄留してこっちのいい学校へ越境入学した方がいいと勧めたらしい。そこで五年、六年と都へ電車通学することになった。今度は「痴漢に気をつけるのよ」と言ったのは伯母だった。

 いやはや、大人のしょもない心配に振り回され続けた小学校時代であった。どういうわけだか、最初の学校がとても気に入って離れ難い気持ちを抱いたのはそこだけだった。最後の日に隣りの席の男の子がこう言ったのを良く覚えている。「君の家はお金持ちだから引っ越すんだね。千円札も一杯あって百円札も一杯あって十円玉も五円玉も一杯あって一円玉も一杯あるんだね」

 家に帰ってこの話をすると母が大笑いした。「一円玉も一杯ある、はよかったわね」もし、五円玉で終わっていたら、忘れてしまったかもしれない。子供の頃から駄洒落や可笑しな話だけは忘れないように生まれついたらしい。

 バラエティ番組だったと思うが、坂本九が森山加代子に愛を告白する場面で「貴女はぼくの太陽です。月です、星です、カンテラです」と言ったのでよ~~く覚えている。

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Hike十七歩半

 実の処、欲しいものはいっぱいある。5000億dollarじゃない、ユーロばかりあったら、ヨーロッパの僻地に広大な土地を買い、敷地の外周に沿って線路を巡らす。蒸気機関車を少なくとも10台買う。毎日交代で走らせる。

 airplane滑走路を作り、ジェットは1機、複葉機からYS11まで売り物のヒコーキなら何でも集めよう。でっかぁ~い格納庫を作らねば。そしてhorse。アラブを10頭、テネシー・ウオーキング・ホース、アハルテケ、モーガンホース、カマルグ、どさんこ、等々、数頭ずつ、dogcat何十匹。

 ship船は砲門を備えた帆船。を浮かべられる巨大な池を作る。としたら、5000億ユーロで足りるのだろーか?

 ユーロって幾らだったっけ?

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Hike十七歩

 その頃、祖母と叔母はわが家より遥かにリッチな伯母と一緒に住んでいた。伯母の所は息子二人だったので正月や七五三の晴れ着はすべてではないにしろ、そっち方面から来たような気がしている。訪問する度、おままごとの道具など何かしら貰っていたようにも記憶するが、次第に喜んでいるふりをしなければならないことに苦痛を覚え、貰いたくないと思うようになった。

 今でも物を貰っても余り嬉しくない。買おうと思っていた本を誕生プレゼントに贈られても、実際今年はそうだった、自分で買う方がずっと嬉しい。できることなら、お金で戴いて、自分で買いに行きたい、と。(内緒、内緒)

 そんな可愛げのないガキンチョも二つだけ、欲しいぃっsign03と思ったものがある。一つはミルク飲み人形、口から水を入れると下から出て来るが何故か穴は後ろについている「アメリカ生まれのセルロイド」昭和20年代末か30年代の頭だが、4桁の値段であったことを覚えている。「うちではとても買えないの。諦めなさい」と母に言われ、不満ながら納得した。

 ところが父が買ってくれると言ったのだ。日本橋の三越だったと思うが父に連れられて買いに行ったその時の嬉しさと言ったらsign03sign03

 その後、着替えの服も買って貰ったり、姉が手縫いで作ってくれたり、さんざん遊んだ結果、右頬に小さな「笑窪」ができ、両腕、両脚の付け根はブラブラ。で、今も手許にある。北原照久さんちに里子に出したいが、お引取り下さい、だろうな。

 もう一つは段々スカートのドレスのようなワンピース。これも「あんなものは暑いのよ」とかいろいろ口実をつけてアウトだったが翌年狙っていたものよりは大分落ちる「紛いもの」を買って貰ってそれなりに満足した。

 その二つで生涯の物欲は満たされ、以後、本とレコード(とその再生装置)以外欲しいと思うことはなくなった。 

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いざ、用意、十六歩

 記憶にある最初の地は大田区山王へ数十歩、住所はスレスレ品川区の住宅街、敷地二百坪、利用していたのは五十坪ばかりで半分は季節ごとに咲き誇る花々でびっしり埋め尽くされた。その頃の母の唯一の楽しみであり、誇りだった。春の芝桜、秋の小菊、中には花の咲かないさるすべりの小木も。

 黄色のカンナ、薄紅の芙蓉、色とりどりの百日草に松葉ぼたん、青い空、入道雲と共に夏の花々が鮮やかに蘇える。花壇の反対側の一角には実がなれば独り占めできたいちじくの木。子猫が登るだけ登って下りられなくなってミャーミャー鳴いていたのを父が下してくれた。

 と、書くと随分いい暮らし向きに聞こえるが、土地は確か父の会社の社長のものできっと只か同然の賃料で借りていただけ、建っている家もいわゆるバラックで従姉が暮らしていた部屋というのもなんと風呂場を潰してなんとか住めるようにしたものだ。家具と呼べるようなものもなく、椅子は父が作っていた。物に執着がないのもするような物が一切ない環境で育ったせいかもしれない。今でも三次元であることに価値のある「物」は一つもない。

 ないのはG-MANにならない。

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三五十五歩

 女学校時代、母は毎日お昼は五ロッケパンを食べたそうだ。「まいんち!」と強調してたっけ。「それと三つパン!ドッグ用のパンを横に切って黒蜜を塗ったものにえんどう豆がいっぱい入ってたの」

 notes今日もコロッケ、明日もコロッケnotesという歌があったが、食卓に頻々とコロッケが乗った記憶はない。近所の肉屋に買いに行った覚えはある。確か二つで五円。一つだったか?刻みキャベツは只。希望すればソースも掛けてくれた。今でもコロッケは肉屋に限る。銀座の銚子屋、地元の肉屋、どちらも揚げたてなのでうまさ倍増。買ってすぐ歩きながら喰らうが一番。だが、コロッケパンも好き。パンはバンズで必ず刻みキャベツ。レタスは×。

 そんなにも好きだったコロッケパンを食べている姿は思い出せないが密豆は大好きでもう一つの好物は杏、と来れば、銀座鹿の子の杏密豆、よく土産に買って帰った。酒、煙草は嗜まず甘いものが好きな父にはあんみつ。わたしはと言えば子供の頃から好きだったのがクリーム密豆。密は白。実のところ豆はいらず、寒天とクリームだけで満足、ピンクと薄緑の牛皮が添えてあれば言うことなし。目下、黒蜜添付の寒天にバニラアイス(ハーゲンダッツ!)を乗せたおやつを食べるのが日課です。

 

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十姉妹十四歩

 実の姉をお姉さんと呼んだことがない。わが家でお姉さんと言えば即従姉のことだった。音楽学校はうちから通っていた。ようだ。記憶の始まる頃は既に歩いて5分ばかりの下宿屋に移っていた。ピアノだけは一緒に引っ越せなかった為、毎日やって来て発声練習やらオペラ・アリアの稽古やらに励んでいた。

 ある時、姉が言った。「お姉さんと一緒に歩くの、やだわ」「どうして?」「平気で歌いながら歩くから、恥ずかしい」姉は四つ上でおそらく中学生になっていたと思う。子供と準・大人の差もあっただろうが、見かけと手先の不器用さを除くと父系の血で出来上がっているわたしと手先の器用さ以外もろ母方の姉との資質の違いである。下手っぴぃなら恥ずかしいが、従姉はプロ、声は美しかった。何を恥ずかしがることがあろうか?

 中学1年の時、音楽の教師が授業の後で残るように言った。「脱げ!」じゃなかった、教師のピアノの伴奏で「赤とんぼ」をワンコーラス歌わされた。終わって一言「やれば、伸びるよ」腹の中で答えた。「その気なし!」

 以前は歩きながら、自転車で走りながら、歌っている人をちょくちょく見かけたが、いつの頃からか、ぱったりいなくなった。歌はカラオケで歌うものになったからだろう。

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自由散歩十三歩

 わが従姉は父の母系に流れる手先の器用さも受け継ぎ、ミシンを自在に操った。「遠足の前の日に『叔母さま、切地買いに行きましょう』と言って徹夜で服を縫ってくれた。本当に助かったわ」

 あの当時のご町内には米屋、炭屋、豆腐屋、酒屋、餅菓子屋、洋品屋、文房具屋と並んで必ず切地屋もあった。婦人誌の付録に型紙の付いた時代である。

 「あなたっていつもいいもの、着てるわね」と小学校の二、三年生の頃、級友が羨ましそうに言った。それが普通だったのでなんとも思っていなかった。ほかの子が何を着ているか気にしたことはなかったし、覚えていない。親戚、知人、隣近所の中で一番の貧乏人にも拘らず、姉妹二人いい格好ができたのは従姉のみならず更に強力な助っ人がいたからだ。ドレメを出て洋裁で生計を立てていた叔母、母の妹である。

 顧客は田園調布の奥さま方、スターではないが女優さんもいた。切地はすべて舶来品、と言ったのだ!英国や伊太利亜、仏蘭西など、一個でも目の玉が飛び出すくらい高いくるみボタンを平気で使う高級品である。余り切れなど要求しない。子供の服なら作れてしまったのだ。

 いいものを着ているとも思わなかったので優越感を抱くことはなかったが、引け目を感じることなく過ごせたのは幸運だったと振り返って思う。従姉も叔母も今はない。

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一、足すなら十二歩

 魔女ではなかったが、多少のトリックはある。ピアノの先生は従姉の友人でどうやら格安料金で面倒みてくれたらしい。姉が習うことになって一緒に習うよう強く母に勧められたが「いや!ピアノ、嫌い!」と拒み通した。それがある時突然やりたくなって通い出す。先生のお宅へはバスで行くのだが、振動の一番激しい最後尾の座席に座り、自らの力で倍に増幅するのが何より楽しかった。

 姉はバイエルの途中、わたしはその遥か前でピアノ修業はいきなり終わりを告げる。引越しの為だ。移った先のご近所には続ける手立てはなく、あったとしても費用の点で困難だったろう。暫くは未練が残った。

 唯、ピアノという楽器の音は依然として好きでなく、箏、ハープなど似た音色のものもすべて。

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+-十一歩

 江戸の商家の娘たち同様、わが母も姉妹共々習い事はしていたようだが、家事は一切知らなかった。結婚当初「ご飯も炊けなかった」ので父が炊いていたそうだ。わたしが物心ついた頃には母が炊いていた。お嬢さん一転おさんどん。

 高校は女子美術の普通科だった。「あの当時は女学校へ行く人は何人もいなかった」のだから、級友たちも皆相当にやっている家庭の子女の筈だがそれでも小遣いの多さを羨ましがられたそうだ。「でも、それが普通だったから、なんとも思わなかった」dollar downwardright zero

 虚弱児だったわたしは毎月一回必ず自家中毒で掛かり付けのお医者さんに往診して貰い、丈夫にしようとバレエを習わせたものの「到底バレエには向いてませんので日本舞踊になさい」と言われてその通りにし、そのほかに姉と一緒に習字とピアノも習わせ、確か協和銀行と記憶するが毎月貯金もし(御用聞きよろしく、向こうから来た。あれはひょっとして借金だったのかしらん?)ポーラ化粧品のセールスウーマンも富山の薬売りも定期的にやって来た。父の薄給(と聞かされ続けたが額は遂に知らぬまま)で一体どう遣り繰りしたのか、今考えると「母さまは魔女だったのです」sign02

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つばなれ十歩

 「母親は好きじゃなかった」姉妹も好いていない様子だった。「お父さん子だったの」腎臓を悪くしてわたしが生まれるよりずっと前に亡くなっていた。「今なら死なずにすんだのに」

 父親の父親は奥さん運のない人で来る人来る人皆死んでしまい、とうとう五人。「今度はどんな人が来るんだろうと子供心にも気が揉めた」そうだ。

 今日では女の長生きは常識であるが、女の寿命が男より長くなったのはこの100年ぐらいのことである。産後の肥立ちが悪くて、或いはお産そのもので命を落とした。新しい生命を誕生させるのは命懸けなのだ。昆虫の多くが卵を産むや自身は死ぬ。ヒトも又母親たちは「小さな死」を経験しているのに違いない。

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やっとこ九歩

 家事、子供の世話は女中さん任せ、母の母が何をしていたかと言うと毎日芝居見物、物見遊山、ではない。商売の手伝い。忙しく働くその姿を見て、わが母はこう思った。「あー、いやだ、いやだ。わたしはサラリーマンの奥さんになる」

 そして、なった。のはいいが、なんだって、福井の機屋の次男坊だか三男坊だかで丁稚奉公同様、零細だか中小企業の社員になった、本当は芸術志向のわが父を選んだのか?一度、出会いの経緯を聞いた覚えはあるが、記憶に留めていない。銀幕の内でも外でも美男にしか興味のないわたしとしては、父がいい男ならそれだけで納得だが、不細工ではないが色男には程遠い上、面食いではなさそうだし、母の家系は芸術には全く関心がない。だから「今はこんな仕事をしているが、これは世を忍ぶ仮の姿、いずれは横山大観のようになって見せる!」と言われて舞い上がったなんてことはありえない。そもそもわが父は大言壮語や誇大妄想とは無縁の人で母と知り合った頃には絵描きになりたいとの願望もとうに手放していた筈なのだ

 父が母を妻に望んだ理由は容易に想像がつく。美人だったから。どうやら、父は美人が好きらしい。マリア・カラスのレコードを収集したのも最高のソプラノとのお墨付きを信じてのMe/Her行為である以上に美人画コレクションと同じ動機からではなかったか。

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ハハ八歩

 母の母は新潟の造り酒屋の娘であった。兄は集英社の重役、姉は弥彦神社の神主に嫁したという。矢鱈気位が高く、厳格で何かあると「町人の子は・・・・」などと言った。武家でもないのに変なことを言うと子供心に思ったものだ。

 「椿は花が首ごと落ちるので武士には嫌われたのよ」と母は言った。九歳か十歳の頃、絞った手拭いを勢いよくバンっと広げると「その音は首を切り落とす時の音にそっくりだそうよ」だから、しないように・・・・武家でもないのに、だとしても、今の世の中で打ち首でもあるまい、やれやれと思ったが、気にする人がいるかもしれないので人前では慎むことにした。尤も慎まねばならないような状況は一度も設定されなかった。

 これらの些事から以下のように推測することが可能だ。母の母の母は御維新で碌を離れた下級武士の娘であった。世が世ならば、平民どもと関わり合こともなかったとの嘆きを子守唄にわが祖母は育った。「たとえ町人の家に嫁すともそなたは武士の娘であることを忘れるでないぞ」とか何とか。

                                    違うか?

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ほな七歩目

slate 映画には幼稚園で目覚めた。「紅薔薇白薔薇」と題された幻燈である。生まれて初めて「美しい!」と感じた瞬間であった。興奮して母に告げると「映画はこれが動くのよ」こんな美しいものが動いたらどんなに素晴らしいだろう!「見たい、見たい、映画、見たい」

 「こんな小さな子をあんな空気の悪い所へ連れてくもんじゃありませんよ!」祖母の一言で映画はお預けになってしまった。一緒に暮らしているわけでもないのにどうしてそんな事態になったのか不思議でならなかった。母が何かの行きがかりか又はその気で喋ったからには違いないのだが。「学校へ上がったらね」かくして入学の日を一日千秋の思いで待ち続けることになった。一桁年齢の人類にとって一年は気の遠くなるように長い。60BABAには目の回るように早い。今年も残すとこ5ヶ月。来月には来年のカレンダーが。

 そして運命の日がやって来た。初めての恋。実人生に先んじて銀幕の美男に。新諸国物語「笛吹童子」の笛吹きでない方。

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六歩を踏む

 父の母の長兄の息子は知る人ぞ知る詩人、時々映画評論家である。古い映画の本などを読んでいると□□がああ言ったこう言ったと引用されているのに遭遇する。

 父の姉の娘は東洋音楽学校を出てオペラ歌手を目指した。が、果たせずクラブでいわゆるシャンソンを歌っていた。ようだ。同期には黒柳徹子がいた。一度どこかの楽屋に連れて行かれたがバタバタ走って行った人がいて「宮城まり子よ」見たのは後姿だけだった。従姉が歌っていた頃は子供だったのでステージは一度も見ていない。

 父自身は若い頃は絵描きになりたかったらしい。山の写真を撮って自分で現像していたと聞く。と言うのもわが父は極端に無口で何も話さない。手先が器用で日曜大工が得意、生涯に渡り書道を続け、退職後は比重を絵に移して行った。色紙に花鳥風月など。かなりの量を残して逝ったが、その多くに染みが出てしまった。絵描きになるだけの才能はなかった。

 老いては麒麟もの喩え通り、九十を超えた頃からか、手が思うように動かなくなり書も絵もやめた。代わりに何を始めたかと言うとオペラのビデオを見ること。耳も遠くなっていたので音はヘッドフォンで聞いていた。以前からマリア・カラスを中心にオペラのLPを買い込んではいたが、オペラ好きの遺伝子というものまであるのだろうか?

 わたしの好きなオペラ歌手はテナーは市原多朗、ソプラノはスミ・ジョー、この十一月にオペラ公演、コンサートがあり、既にチケット入手済み。note

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ごぼごぼ五歩と99/100

 昨夜は四つのblogすべてを更新した。なぜ四つも抱える破目になったかと言うと書くのが好きだから。なぜ好きかと言うと「ぜんぶ遺伝子のせい」

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ごぼごぼ五歩半

 結婚式の写真は一度しか見たことがなく、母が姉から借りたか、或いは伯母(わたしから言うと)の家に行った時、見せてもらったか。自分のうちで見たような気がしてならないが、さだかではない。その写真もいずれ何処かへ行ってしまい、この事実を知る人もいなくなる。

 事実、事実と大きな顔するねぇ。この世はどうでもいい事実でいっぺいだ。の事実ですけ。

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ごぼごぼ五歩

 二人の兄のどちらか、おそらく長兄、はかつて美人でならした女優さんと結婚していたことがあった。戦後はTVドラマでも人気を集めたようだが、おばはん顔でどこが美人なのだ、わが母の方がよっぽど美人だと不思議でならなかった。

 ある時、母が結婚式の写真を見せてくれた。花嫁姿のその人は成程「きれいねぇ!」であった。その後、キネ旬の俳優名鑑に当たってみたが、私生活に関する記述はなくこの結婚には全く触れられていない。女優になる前のことであり、或いは入籍はしなかったのかもしれない。

「なんで別れたの?」「金の切れ目が縁の切れ目よ」母の芸能人嫌い(そのように思える)はそこに端を発するのかもしれない。

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のしのし四歩

 娘時代の母の写真が二枚ある。一枚は日本髪で十九歳、もう一枚は洋髪で二十二歳、いずれも写真館で撮った晴れの写真。自分のはすべて焼失、戦後親戚が持っていたのを返して貰ったのだという。

 写真は焼けた。着物は残った。市井の人間の写真など一文にもならぬが、着物なら売れた時代なのだ。忘れていたが、売らずにすんだものが何枚か、その内の一枚は今も捨てずにある。紫の矢羽根の絞。取り出して見ると紫でなく青紫、地には牡丹、菊、雲、井桁などの模様が浮かぶ。

 写真のものは白黒なので色の分らないのが残念だ。たとえ、カラーだったとしても変色して本来の色はさだかではないと思うが、凡その見当はつくだろう。取り分け十九の時の桜に流水は実物を見たかった。羽織ともどもかなり黒く写っている。もう一つの方は白かピンク、それよりは濃い色で雲が片袖、袂の先や裾に広がり、帯の真下に御所車が一杯に描かれた振袖。帯揚げは赤と見た。

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ぶらぶら三歩

 お蔭でわたしの命が助かった。赤ん坊の頃、肺炎に罹り「ペニシリンを2本打てば助かります。1本二千円です。どうしますか?」その金を作る為に娘時代の着物を売ったのだ。「最初は入れなくて質屋の前を何度も行ったり来たりした。二度目からは平気だった。それから何年かして母がもう派手になっただろ、染め直してやるから出してごらんと言われた時は困った」

 最後まで売らずに取っておいたのが総刺繍の二本の帯、白地と黒地、娘二人に一本ずつ残したいとの思いからだろうが、本人も手放したくなかったのだろう。帯を見て歩く趣味はないが、あれ程見事なものを見たことがない。ずっと箪笥の底で白地のものは茶色い染みが出たので「捨てた。黒い方は知り合いのアート関係の人が壁に飾りたいと言うのであげた。いいでしょ?」と姉。「うん」と言ったが、白を捨ててしまったのは惜しいなと今は思う。刺繍の部分だけでも残せなかったかと。あそこまで行くと美術品の域である。

 不思議なのはそうした財産が戦火を免れ、母の手許に戻ったことだ。実家は焼けたと聞く。姉妹共々福島のお寺さんに身を寄せたらしいが、クロネコ便もアート引越しセンターもない時代に娘三人分の大量の呉服類をどこに保管していたのだろう?そのあたりの経緯は聞いた覚えがない。今となっては調べようもない。

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よたよた二歩目

 母の生家はアメリカ相手の貿易商、女中さんが何人にもいて「女中頭がいた。兄貴が又猫またぎ(鮭のこと)かよと言うと贅沢言うんじゃありませんよ!と一喝した」

 今の時期は毎年逗子へ。「来る顔ぶれは決まっていてパラソルを立てる場所まで決まっていた」余りの羽振りの良さに株屋さんですかと訊かれたとかだ。泳ぎは伸しが得意だったという。「海はね、引く力がすごい」

 上に兄二人、姉一人、下に妹と弟がいた。ほかに二人生まれたが幼い内になくなった。ご多分に洩れず、兄貴二人は花柳界に入り浸り、娘三人は買い物へ。行き付けの店は上野の松坂屋。「行くと番頭さんが付いて歩いた」

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はじめの一歩半

 ココでは初めてだが、別の二ヶ所で既に三つのブログを持ち、これが四つ目である。どれも訪れる人の滅多にいない僻地サイトで独り言と変わりない。一つ目は友人二人、あとの二つはその内の一人にしか知らせていない。このブログはその一人にも内緒の、話はあのねのね、初めから独り言、日記でもなくコラムでもなく、つぶやきである。最初に考えたタイトルも「60BABAのブツブツ記」であった。あと3日で正確には60プラス1になるが、ブラジル’66みたようなもので年毎に増やすつもりはない。それ以上に1年続くかどうかもあやしいのだから。

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はじめの一歩

 わたしは生れ落ちた途端、すべての運を使い果たした。

 裕福に育った美人の母を持った。

 その母は娘時代にすべての運を使い果たした。

 貧乏サラリーマンと結婚した。

 かくて我誕生せり。

 

 

 

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